「願いに変わりはないのにそれぞれを隔てる言葉」についての考察
前回のブログ「象のいる星」を書くにあたり、なぜか気になっている事がある。それが妙に残っていて、今も自分の中で燻っている。
たぶん、ビッグイシューとホームレスの事を調べている時に遭遇したホームレスに関わる2つの文がそれだ。
「ビッグイシューは、ホームレスの人の救済(チャリティ)ではなく、仕事を提供し自立を応援する事業です。」
「私たちは、ホームレス状態にある方たちへの法的支援を行うために、結成されたグループです。」
どちらも、ホームレスの人々の力になりたいと活動している貴重な存在であることは紛れもない事実として理解できた。
でも、何かが引っかかる。
何度も読み返してみると、前者が「応援」している事業であり、後者は「支援」している団体だということがわかった。
両者の間には、本当に違いがないのだろうか。
意味を調べてみる。
「応援」 力を貸して助けること。
「支援」 力を貸して助けること。
あれ?同じじゃないか。
別の辞書で更に調べてみる。
「応援」 他人の手助けをすること。
「支援」 他人を支え助けること。
少し違いが出て来た。
「手助け」と「支え助ける」
大きな違いは感じられない。
類語を調べてみる。
「応援」 支援、声援、後援。
「支援」 応援、援助、後援。
何だ、お互いの言葉も含まれている。
唯一の違いを検証する。
「応援」→「声援」声をかけて元気づかせること。
「支援」→「援助」困っている人に力を貸すこと。
ここで明らかに道が分かれてきた。
運動会で仲間にするのは「応援」であり「支援」ではない。だから、声をかける。
困っている被災者にするのは、往々にして「支援」といわれており「応援」とは表現されない。でももしかすると「応援」しても良いのではないか。
限りなく同義ではあるのに、私にとって「応援」する側とされる側、「支援」する側とされる側の立場の違いが、この二つの言葉の持つ微妙なニュアンスを、居心地悪く感じていたのかもしれない。
現状は、支援する人たちが自分の立場はされる人とは別などと思っていないし、ましてや施しているなんて、これっぽっちも思っていないことはよくわかる。しかも現場の人たちがどれほど骨身を削って日々努力されているのか、我々の想像を遥かに越えるハードなものであるに違いない。
それなのに、なぜ私は違和感を感じてしまったのか。
さらにうがった見方をすれば、前出の「手助け」と「支え助ける」だって、できない相手を助けてやってる的な意味合いを感じなくもないのだ。
言葉って難しい。