2013年2月24日 (日)

うすあかりの国

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死とは
それはここからいなくなる
つまり
不在になるということ

うすあかりの国の上演に寄せて、構成と演出の櫻井拓見はこう書いている
「宮澤賢治自身が早世した妹「トシ子」の不在を追いかけたように、電信柱が息づくのを見たように、いまの私の「生」がいったいどこに宿っているのか〜再確認する試み」
「彼があと十数年長く生きていたら、例えば、あの大きな戦争の「あとの日本」を経験していたら、どんな見えないものを見て、どんな聴こえない音を聴いていたのか」





特別なストーリーも役名も持たないこの芝居は、ミニマル音楽によく似ている
だれが主役でもなく、どの楽器がメロディーなのでもない
それぞれが同じフレーズを繰り返す、同じ動きを繰り返しながら、少しずつその形を変えていく
気がついたときには別のものになって、別の場所にいる

うすあかりの国で繰り返されるひとつひとつには、必然があった
ダイナミックな起承転結がない分、単調な「繰り返す」という行為の中で、自分を見つめる眼、見つめ返す時間が生まれる
そしていくつもの「繰り返す」がひとつの層のうねりとなって行きつく先、出口の見えないトンネルの中を蠢き彷徨ったものがたどりつく先には、ひとすじの光が差し込む



聴こえない音、見えないもの
他の誰にも聴こえなくても、見えなくても
その人にだけ聴こえている、見えているものがあるはず
それが何であるのか


自分の「不在」
そして自分にとっての「生」
うすあかりの国で生きるいま
それが何であるのか





                       「うすあかりの国」 宮沢賢治 ひかりの素足より

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