2021年6月23日 (水)

「手段と媒体」あるいは「記憶と憧れ」

音楽は、己を表現するひとつの手段かもしれない。それを手段ではなくて、自分の届けたいなにかを伝える、どこかに連れて行ける媒体になり得ないのか。

そんなことをずっと考えています。


そしてその答えを示唆してくれたかもしれない3人のクリエータに感謝して書き残します。

憧れと記憶が滲みだしてゆく。


中家 春奈。リヨンに住んでいてヴィオールとクラヴサン、中世フィドルを弾いているいるとのこと。

中家さんが震災から10年目によせて作曲された「Se souvenir avant le 11 mars 2011 」の動画。

https://youtu.be/RlTOFpqeOgY・


Riquo Kuu。作詞作曲をし、自分で歌い弾く人。

以前対バンライブで演奏されているのを聴いて吸い込まれそうになり、思わず買い求めたアルバム「The Twin Pianos」。

https://youtu.be/QkHI38ZknI4


音楽帳工房。DTMで作品を制作しているアレンジャー。

古楽おそるべし、大きな衝撃を受けたマラン・マレ作曲「膀胱結石切開手術図」にチェンバロ伴奏をつけてアレンジ、キャプション付きの動画。

説明付きのnoteはこちら

https://note.com/ricercar/n/n90d0051a0843

動画のみはこちら

https://youtu.be/tudSD6RSip

2dd737189ae5444ba9cb9b9902f5139bF954b81ae1904b69a3fa6cad1823b71dD73ba20d8b5343eea19d08ba197603f9

2021年4月 7日 (水)

マタイ受難曲2021のことだけじゃなくて

音楽はみんなのものだということがわかった。
もちろん音楽がいらない人もいるだろうけれど、必要な人の数だけいろんな音楽もある。

 
それでは、わたしはなぜ音楽を音楽に関わっているんだろう。なんのために音楽を生み出しているのか。自己表現のひとつとして、誰かに何かを伝えたい?

 
スタジオや納品する作曲の仕事とは別に、ライブの現場に置いてはずいぶん長い間、あなたが何をしたいかわからないと言われてきた。理論がわかっていないわけではないはずだけれど、音を出す瞬間になると、そこに考えは及ぶことがなく、ただ自分に鳴っている音を出してしまう。

まわりの音楽を邪魔するわけではなく、その音がここにはきっと素敵だと感じるからこそ生み出す自分のそれは、周りのミュージシャンに対しては「わきまえない」音楽だったんだということがわかってきた。そんな中でも、その自分勝手な音に共鳴してくれる人もいた。それが林栄一さんだった。


たくさんのミュージシャンに迷惑をかけながら、少しずつ自分の言語を理解してくれる人たちに出会いながら、ここ数年はとても心豊かに音楽を生み出し始めることができてきた。
それでもまだ、自分自身と音楽との関係性にどこかしっくりしていなかったのは事実だった。

 
2月に上演したマタイ受難曲2021の準備段階、周りがとても不安そうなのを肌で感じていた。そりゃそうだ、口ではあーだこーだshezooは言っているけれど、実際バッハにボカロが参加するだの、エヴァンゲリストは歌手ではなくて役者だの、何を言っているんだろう、それこそ何がしたいのか、わからなかったに違いない。

 わたし自身は、マタイ受難曲本体の原作とは違う楽器編成や歌手のポテンシャルによる音楽的な構築、調教師・酒井さんによるボカロの音楽的な質の高さによる対応力、バッハが最も伝えたい「人は嘘をつく」ということの現代における意味を踏まえたプロットの作成を役者の二人と共に脚本として育てていく中、ひとつひとつのパーツが組み合わされていくことで、たしかな手応えを感じていたけれど、ゲネプロでその全容が見えるまで、それはそれは不安だっただろう。

今となれば、大変申し訳ないことをしたと思うばかりだけれど、それにもかかわらず、プロデューサーの岩神さんをはじめとして、企画に携わってくれたスタッフ、参加メンバーがそんなことを噯にも出さず、それぞれができることに全力を尽くしてくれたことに改めて感謝をせずにはいられない。

 
そうして、たぶん誰もが見たことのなかったマタイ受難曲を届けることができた。でもそれは目的でも達成でもなくて、自分にとっては、やっと何がしたいかを伝える第1歩を踏み出したに過ぎない。


そんなことをぼんやりと感じながらも、ライブは次々とやってきた。

まずはバイオリン桑野聖さん、フルート北沢直子さん、ベース西嶋徹さんとの バッハとピアソラ祭り@エアジン。
バッハの「音楽の捧げ物」を中心にピアソラと拙作の小品を演奏したのだけれど、「音楽の捧げ物」は吐きそうなほど難しくて、メンバー全員、もちろん自分自身も死ぬ思いをしながら臨んだライブではあったものの、3人とともに作った時間、わたしの心はとても自由だった。

そして4月3日、4日のふたつのライブ。
3日にはソプラノの高橋美千子さんと、4日はチェロの平山織絵さんとのデュオ。
お二人とも、リハーサルの直前に加えて、この間にとても大切人を亡くしていた。
そのことは、選曲にも影響したし、リハーサルで演奏する時も感じざるを得ない、考えざるを得ないことだった。

美千子さんは、とてつもない歌手だ。歌手であるけれど、表現媒体は声に止まらない、オカルトのようだけれど、たぶん魂とか周りにいる霊とか、すべてのものを引き連れて世界を作る。
そこで彼女はわたしに、何をしてもいい、という。はじめは遠慮しながら。でも気づけば、なんに気兼ねすることもない、彼女との時間のみを感じ取ってエアジンのピアノと共に音や何かを送り出していた。

このライブでのできごとは、あまりにも衝撃的だった。

 
次の日は昼から織絵さんとのライブ。きっと前日の余波を引きずっていたと思う。
なのに、織絵さんのチェロがわたしに訴えてくる力は、昨日とは別の力をわたしにくれた。
カフェ・ブールマンの、時々拗ねるピアノが、なぜだろう、ものすごくわたしのいうことを素直に聞いてくれた。

 
二日間を聴いてくれた人が、花をくれた。
この花を見たらshezooだと思ったという。
そうなのかな、自分こんな鮮やかな色してるんだろうか。

 
花瓶に花を生けようとしたら、小さなカードを見つけた。
 異次元♡を魅せてください

 
やっと腑に落ちた。

そうか、わたしは、ちゃんとしたきまりに従って表現することに専念しなくてもいいのかもしれない。

すべてをひっくるめて、なにがしたいかわからない、異次元を表現してもいいのかもしれない。

こんなことを書くと、なに勘違いしてるのとお叱りを受けそうだけれど、甘んじてそのお言葉を受けます。
勘違いでかまわない、その勘違いから見たことのない、聴いたことのない、ありえないことを届けることができるのであれば、本望だもの。
そう決めた。
  

20210407-145006_20210408010201
Img_1714_20210408010801

2021年4月 4日 (日)

みんなの音楽はなんのためにあるのか


20210404-20749    
音楽はだれのものなのか。
少し前に見た宝塚の「fff」では、教会や支配者に音楽を捧げてきた先人を見つめながら、民衆のための音楽を作るベートーベンの苦悩が描かれていた。


音楽が大衆のものになってから久しい。そして世界中の音楽が、どこにいても誰にでも瞬時で手に入る今の時代になって、音楽は個人のものになったように見えた。しかもコロナ禍の訪れによって、ライブハウスやコンサートホールでの演奏すらも、配信で個人へと送られ、益々閉じてしまったように思えた。



美千子さんはわたしを共演者に選んでくれた。しかも好きに演奏していいという。

実際にやってみてわかったこと。彼女は今生まれようとしている音楽を、自分のすべてを通して伝えたい、ただそれだけを求めて歌を表現している。彼女が音楽を通して何かを描くためには自由に広がる空間が必要だった。そこに臆すことも迷うこともなく、その世界に溶け込み、自分の色でさらなる世界を共に描いていく。

そうか、それを目の当たりにした聴き手が、さらにその世界を共に垣間見たとしたならば、音楽はどこまでも共有することで生きているものであることを感じる。

たとえその場に居合わせられなかったとしても、世界を招き入れてくれた人たちのもとで、閉じることなく、さらに増幅し生きてゆく。 

美千子さんがやりたかったことは、そういうことなのだ。
しかもこれは、ライブでしかなし得ないということ。



今夜お届けしたアイヌ民謡、古楽、フォーレ、バッハ、朧月夜、ペルト、アルバンベルク、モンゴル、shezoo...。
間、息遣い、残響、記憶。そこから一音を鳴らすことにこれほど神経を集中させたライブは稀だ。
美千子さんと共に描きたい世界がまだまだあり過ぎる。



高橋美千子&shezooスペシャルデュオナイト@エアジンにお運びくださった方、配信をお聴きくださったみなさま、心からお礼を申し上げます🍀

2020年1月 7日 (火)

Invisible Garden / 透明な庭の試聴動画

アコーディオン藤野由佳さんとshezooとのデュオ、透明な庭の1stアルバム「Invisible Garden」の試聴動画ができました。
https://youtu.be/jGPWGZqyGzQ

2019年9月29日 (日)

石川真奈美さんとのライブ音源をサウンドクラウドにアップしました

石川真奈美さんのうたが大好きで、デュオのお誘いをしたのが2年前の11月。

それから大泉学園のインエフでデュオライブ重ねること9回目の9月15日ライブ。

真奈美さんの「死んだ男の残したものは」「悲しい酒」うたを聴いていてピアノが弾けなくなりそうになった瞬間がありました。

大切な時間に足を運んでくださった方々に音楽を届けるのだ、そんなことではいけないと、弱い自分と戦っていた夜でした。


♪死んだ男ののこしたものは
https://soundcloud.com/shezoomusic/zqjn4m9odezi

♪悲しい酒
https://soundcloud.com/shezoomusic/s3bpoikjqrcs

石川真奈美shezoo次回ライブ 2020年1月5日@インエフ

最近、身体と魂が別の場所にある感覚があります。ピアノを弾いている時も、作曲していても、自分を離れた所から見ている。そして思うこと、考えていることは、頭や胸の中にものすごい量があるのですが、それを言葉にすることができなくて、ひとつひとつの音にゆっくり火を灯している。

 

 

2015年6月17日 (水)

トリニテ2ndアルバム『月の歴史 Moons』

_small


『月の歴史 Moons』2015年7月30日リリース

 7月10日トリニテジャパンツアー2015東京公演@ティアラこうとうで先行販売


『月の歴史 Moons』

1、Prologue

2、White Moon

3、Dream Catcher

4、Dies Irae 怒りの日

5、Luna

6、Grunion Dance

7、Moons ふたつの月

8、Mother


Trinite

shezoo(piano)

壷井彰久/TSUBOY Akihisa(Violin)

小森慶子/ KOMORI Keiko(Clarinet,Bass Clarinet)

小林武文/ KOBAYASHI Takefumi(Percussion)



『月の歴史 Moons』は、引き合う月と地球の関係をメタファーにして、誰かと誰かとの関わり方を見守るアルバムです。その「誰か」は、家族でも、恋人でも、友人でも、見ず知らずの人でもかまいません。「月」はあなた自身、わたし自身であり、「歴史」は生きている日々の記憶です。

 

2014年10月 1日 (水)

お知らせ

10689503_761679650545689_6735916375

昨年からプロデュースを担当したクラシック・アカペラのアウラは、この10月から育ての親であるトエラ・岸さんのもとに戻ることになりました。
私はいちアレンジャーとしてアウラをサポートを致します。
ヴォイスオーケストラとしての魅力に益々磨きをかけたアウラを今後ともよろしくお願い致します!

2013年9月 3日 (火)

卑近であるということ

Photo_3

否定をされることが、自分のすべてではなくて、それも糸口に建設的に上昇するべきなんだよ。

でも、作曲をする人間にとって、音楽を否定されることは、全面的な自己否定に限りなく近い。

20代の時に言われた『あなたの音楽はだめな音楽』を自分はどうも引きずっているらしい。

どうしてそんなに卑屈なのと聴かれても、ダメな音楽をやっている以上、基本は提供した音楽を演奏して頂く、というすこし離れた関係性でプレイヤーと関わって来た気がする。

それでも音楽が限られた人間だけのものではないと信じて、シニフィアン・シニフィエやマタイのプロジェクトを立ち上げた矢先、ライブという同じ立ち位置にたっていながらも、いつも不安だったわたしに答えを出してくれた人がいる。





              シズさんの音楽が、結果的にステージ上と客席に明らかな
              ヒエラルキーを感じてしまったのは私だけでしょうか。






ありがとう。
そして、さよならわたし。さよなら。   

2013年7月28日 (日)

shezoo unit マタイ受難曲@横濱エアジンに来てくださった方に

復活祭が近づくと毎年必ずヴィース教会へ行ってマタイを聴く。何時間かかろうが、どれほど重きを持った作品であろうが、10代後半をミュンヘンで過ごした私にとってマタイの存在は、ごく当たり前のものでした。

あのとき木造の教会に差し込む光の中で聴いた胸の奥深くに響く音を、限られた人たちだけが独り占めしてよいのか。なんとか、今、自分のまわりにいる人たちと共有できないものか。

シニフィアン・シニフィエが、自分が聴きたかった音を聴きたくて作ったバンドであったように、このマタイ受難曲プロジェクトもまた、そんな恣意的願望から始めたものです。わがままに付き合ってくれた今回のメンバー、場所を提供し協力をしてくださったエアジンとうめもとさん、そしてこのライブのために時間を作ってくださったみなさんに心から感謝します。

 

 


実際にライブをするにあたって作品と向き合ううちに、様々な思いと考察が入り交じり、エヴァンゲリストに伝えてほしい言葉として文章を渡しました。

20130727マタイ@エアジン エヴァンゲリストへのふたつの手紙」

シモーヌ・ヴェイユ「時間への恐怖」から

時間は人間にとってもっとも深刻かつ悲劇的な気がかりである。唯一の悲劇的な気がかりといってもよい。想像しうる悲劇のすべては、時間の経過という感覚をもたらす源泉である。
厳密にいえば、時間は存在しない(限定としての現在はともかく)。にもかかわらず、私たちはこの時間に隷属する。これが人間の条件である。

(ヴェイユは自己否定としての神を語る。キリストの受難もそのように捉えられている。神から最も離れており、神に立ち戻るのは絶対に不可能なほどの地点にある人のもとに、神が人としてやってきて十字架にかかったということは神の自己否定であるという。)

 

ジョージ・オーウェル「1984」から

時は我々が何もしなくても流れていく。

ただじっとしていても、鼓動と血脈があるよう

ただ生きている。

空をみて、雲は早くも遅くも常に

形を変えて彼方へと消えていく。

何一つ、誰一人、

同じ場所(ところ)で、

同じ思いであるということは不可能だろう。

我々は目の前に写しだされた像を見ては

(無垢なき)観念  を見いだす。

それは外から染められた

しかし内に秘めた 姿なき像である。

それは見えているのだが、

見えていないということと同じかもしれない。

見えないということは

見えているということに等しいかもしれない。

永遠ということは悲観的概念であり、

すべては永遠ではない  ことで永遠を渇望する。

それに気づくのか、気がつかないか

過去を支配するものは 未来をも支配し

今を支配するものは 過去をも支配する

 

 1069283_365416826920945_1977644360_

そして 

山崎阿弥による朗読 「滝口修造の死」武満徹 



現時点においては昨日の形であり、音楽的なことも含めて、それがどのように変化するのかは自分でもわかりません。いつの日か、全曲を演奏できる瞬間に向けて作品と静かに対話を続けたいと思います。

その時にはまた、一緒に立ち会ってくださいますことを祈っています。

shezoo

 

 

2013年7月20日 (土)

手に入れたもの

20130715_103105_2

わたしにとってのトリニテは
当初自分のやりたい作品発表の場だった

それが歳月を経て
現在のメンバーになって4年目の今年
もはやただの音楽ユニットではくくれない
もっと大きな存在になった

誰かと一緒に音楽を作るということの意味を
何十年も音楽をやってきて
理解はしていたはずではあっても
間違いなくはじめて感じながら演奏することを経験している

音楽は決して理屈で善し悪しが決まるものではない
好き嫌いとか、懐かしいからとか
そんなこととは関係なく心に響く音楽の存在
予測はできなくても理由がかならずあることを教えられたんだ

生きていく上にまつわるさまざまなこと
嬉しいこと、悲しいこと
こわいものなしのとき、うまくいかないとき
たくさんのことが
ちっぽけな自分の周りを渦のように流れてゆく

油で真っ黒に染まった湾岸戦争の海を渡る鳥に
ゆっくりと津波に呑み込まれていく大槌町の町並みに
頭の中では砂漠の狐が、DiesIraeが鳴っていた


体制に対してたった1票の紙しか与えられていないならば
声をあげられない残りのエネルギーを音に託したい
楽譜に込められた思いはプレイヤーの演奏を通して
何倍にも増幅されて聴く人のもとへ届けられる
そしていつしか、それを人任せにしていた


京都での出来事は感動したからでも感極まってのことでもない
それは、自分が書いたメロディーをどんな状況でも大切に
本当に大切に演奏しているメンバーに対して
何もできていない自分のふがいなさへの自責の念から

もう遅すぎるかもしれない
でもせめて、これから先は一緒に歌っていくことに決めた
あと何回ライブができるのだろう
だれにもわからないことだけれど
自分にできることを全部する
そんな当たり前のことに気づいた



今回のツアーでわたしは
大切なものをたくさん手に入れて
大切なものをひとつ失った
 

より以前の記事一覧