みんなの音楽はなんのためにあるのか
音楽が大衆のものになってから久しい。そして世界中の音楽が、どこにいても誰にでも瞬時で手に入る今の時代になって、音楽は個人のものになったように見えた。しかもコロナ禍の訪れによって、ライブハウスやコンサートホールでの演奏すらも、配信で個人へと送られ、益々閉じてしまったように思えた。
美千子さんはわたしを共演者に選んでくれた。しかも好きに演奏していいという。
実際にやってみてわかったこと。彼女は今生まれようとしている音楽を、自分のすべてを通して伝えたい、ただそれだけを求めて歌を表現している。彼女が音楽を通して何かを描くためには自由に広がる空間が必要だった。そこに臆すことも迷うこともなく、その世界に溶け込み、自分の色でさらなる世界を共に描いていく。
そうか、それを目の当たりにした聴き手が、さらにその世界を共に垣間見たとしたならば、音楽はどこまでも共有することで生きているものであることを感じる。
たとえその場に居合わせられなかったとしても、世界を招き入れてくれた人たちのもとで、閉じることなく、さらに増幅し生きてゆく。
美千子さんがやりたかったことは、そういうことなのだ。
しかもこれは、ライブでしかなし得ないということ。
今夜お届けしたアイヌ民謡、古楽、フォーレ、バッハ、朧月夜、ペルト、アルバンベルク、モンゴル、shezoo...。
間、息遣い、残響、記憶。そこから一音を鳴らすことにこれほど神経を集中させたライブは稀だ。
美千子さんと共に描きたい世界がまだまだあり過ぎる。
高橋美千子&shezooスペシャルデュオナイト@エアジンにお運びくださった方、配信をお聴きくださったみなさま、心からお礼を申し上げます

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