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2021年4月 7日 (水)

マタイ受難曲2021のことだけじゃなくて

音楽はみんなのものだということがわかった。
もちろん音楽がいらない人もいるだろうけれど、必要な人の数だけいろんな音楽もある。

 
それでは、わたしはなぜ音楽を音楽に関わっているんだろう。なんのために音楽を生み出しているのか。自己表現のひとつとして、誰かに何かを伝えたい?

 
スタジオや納品する作曲の仕事とは別に、ライブの現場に置いてはずいぶん長い間、あなたが何をしたいかわからないと言われてきた。理論がわかっていないわけではないはずだけれど、音を出す瞬間になると、そこに考えは及ぶことがなく、ただ自分に鳴っている音を出してしまう。

まわりの音楽を邪魔するわけではなく、その音がここにはきっと素敵だと感じるからこそ生み出す自分のそれは、周りのミュージシャンに対しては「わきまえない」音楽だったんだということがわかってきた。そんな中でも、その自分勝手な音に共鳴してくれる人もいた。それが林栄一さんだった。


たくさんのミュージシャンに迷惑をかけながら、少しずつ自分の言語を理解してくれる人たちに出会いながら、ここ数年はとても心豊かに音楽を生み出し始めることができてきた。
それでもまだ、自分自身と音楽との関係性にどこかしっくりしていなかったのは事実だった。

 
2月に上演したマタイ受難曲2021の準備段階、周りがとても不安そうなのを肌で感じていた。そりゃそうだ、口ではあーだこーだshezooは言っているけれど、実際バッハにボカロが参加するだの、エヴァンゲリストは歌手ではなくて役者だの、何を言っているんだろう、それこそ何がしたいのか、わからなかったに違いない。

 わたし自身は、マタイ受難曲本体の原作とは違う楽器編成や歌手のポテンシャルによる音楽的な構築、調教師・酒井さんによるボカロの音楽的な質の高さによる対応力、バッハが最も伝えたい「人は嘘をつく」ということの現代における意味を踏まえたプロットの作成を役者の二人と共に脚本として育てていく中、ひとつひとつのパーツが組み合わされていくことで、たしかな手応えを感じていたけれど、ゲネプロでその全容が見えるまで、それはそれは不安だっただろう。

今となれば、大変申し訳ないことをしたと思うばかりだけれど、それにもかかわらず、プロデューサーの岩神さんをはじめとして、企画に携わってくれたスタッフ、参加メンバーがそんなことを噯にも出さず、それぞれができることに全力を尽くしてくれたことに改めて感謝をせずにはいられない。

 
そうして、たぶん誰もが見たことのなかったマタイ受難曲を届けることができた。でもそれは目的でも達成でもなくて、自分にとっては、やっと何がしたいかを伝える第1歩を踏み出したに過ぎない。


そんなことをぼんやりと感じながらも、ライブは次々とやってきた。

まずはバイオリン桑野聖さん、フルート北沢直子さん、ベース西嶋徹さんとの バッハとピアソラ祭り@エアジン。
バッハの「音楽の捧げ物」を中心にピアソラと拙作の小品を演奏したのだけれど、「音楽の捧げ物」は吐きそうなほど難しくて、メンバー全員、もちろん自分自身も死ぬ思いをしながら臨んだライブではあったものの、3人とともに作った時間、わたしの心はとても自由だった。

そして4月3日、4日のふたつのライブ。
3日にはソプラノの高橋美千子さんと、4日はチェロの平山織絵さんとのデュオ。
お二人とも、リハーサルの直前に加えて、この間にとても大切人を亡くしていた。
そのことは、選曲にも影響したし、リハーサルで演奏する時も感じざるを得ない、考えざるを得ないことだった。

美千子さんは、とてつもない歌手だ。歌手であるけれど、表現媒体は声に止まらない、オカルトのようだけれど、たぶん魂とか周りにいる霊とか、すべてのものを引き連れて世界を作る。
そこで彼女はわたしに、何をしてもいい、という。はじめは遠慮しながら。でも気づけば、なんに気兼ねすることもない、彼女との時間のみを感じ取ってエアジンのピアノと共に音や何かを送り出していた。

このライブでのできごとは、あまりにも衝撃的だった。

 
次の日は昼から織絵さんとのライブ。きっと前日の余波を引きずっていたと思う。
なのに、織絵さんのチェロがわたしに訴えてくる力は、昨日とは別の力をわたしにくれた。
カフェ・ブールマンの、時々拗ねるピアノが、なぜだろう、ものすごくわたしのいうことを素直に聞いてくれた。

 
二日間を聴いてくれた人が、花をくれた。
この花を見たらshezooだと思ったという。
そうなのかな、自分こんな鮮やかな色してるんだろうか。

 
花瓶に花を生けようとしたら、小さなカードを見つけた。
 異次元♡を魅せてください

 
やっと腑に落ちた。

そうか、わたしは、ちゃんとしたきまりに従って表現することに専念しなくてもいいのかもしれない。

すべてをひっくるめて、なにがしたいかわからない、異次元を表現してもいいのかもしれない。

こんなことを書くと、なに勘違いしてるのとお叱りを受けそうだけれど、甘んじてそのお言葉を受けます。
勘違いでかまわない、その勘違いから見たことのない、聴いたことのない、ありえないことを届けることができるのであれば、本望だもの。
そう決めた。
  

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