shezoo unit マタイ受難曲@横濱エアジンに来てくださった方に
復活祭が近づくと毎年必ずヴィース教会へ行ってマタイを聴く。何時間かかろうが、どれほど重きを持った作品であろうが、10代後半をミュンヘンで過ごした私にとってマタイの存在は、ごく当たり前のものでした。
あのとき木造の教会に差し込む光の中で聴いた胸の奥深くに響く音を、限られた人たちだけが独り占めしてよいのか。なんとか、今、自分のまわりにいる人たちと共有できないものか。
シニフィアン・シニフィエが、自分が聴きたかった音を聴きたくて作ったバンドであったように、このマタイ受難曲プロジェクトもまた、そんな恣意的願望から始めたものです。わがままに付き合ってくれた今回のメンバー、場所を提供し協力をしてくださったエアジンとうめもとさん、そしてこのライブのために時間を作ってくださったみなさんに心から感謝します。
実際にライブをするにあたって作品と向き合ううちに、様々な思いと考察が入り交じり、エヴァンゲリストに伝えてほしい言葉として文章を渡しました。
「20130727マタイ@エアジン エヴァンゲリストへのふたつの手紙」
シモーヌ・ヴェイユ「時間への恐怖」から
時間は人間にとってもっとも深刻かつ悲劇的な気がかりである。唯一の悲劇的な気がかりといってもよい。想像しうる悲劇のすべては、時間の経過という感覚をもたらす源泉である。
厳密にいえば、時間は存在しない(限定としての現在はともかく)。にもかかわらず、私たちはこの時間に隷属する。これが人間の条件である。
(ヴェイユは自己否定としての神を語る。キリストの受難もそのように捉えられている。神から最も離れており、神に立ち戻るのは絶対に不可能なほどの地点にある人のもとに、神が人としてやってきて十字架にかかったということは神の自己否定であるという。)
ジョージ・オーウェル「1984」から
時は我々が何もしなくても流れていく。
ただじっとしていても、鼓動と血脈があるよう
ただ生きている。
空をみて、雲は早くも遅くも常に
形を変えて彼方へと消えていく。
何一つ、誰一人、
同じ場所(ところ)で、
同じ思いであるということは不可能だろう。
我々は目の前に写しだされた像を見ては
(無垢なき)観念 − を見いだす。
それは外から染められた
しかし内に秘めた
姿なき像である。
それは見えているのだが、
見えていないということと同じかもしれない。
見えないということは
見えているということに等しいかもしれない。
永遠ということは悲観的概念であり、
すべては永遠ではない − ことで永遠を渇望する。
それに気づくのか、気がつかないか
過去を支配するものは 未来をも支配し
今を支配するものは 過去をも支配する
そして
山崎阿弥による朗読 「滝口修造の死」武満徹
現時点においては昨日の形であり、音楽的なことも含めて、それがどのように変化するのかは自分でもわかりません。いつの日か、全曲を演奏できる瞬間に向けて作品と静かに対話を続けたいと思います。
その時にはまた、一緒に立ち会ってくださいますことを祈っています。
shezoo
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