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2013年6月26日 (水)

音楽が博奕だということを理解してもらうために

来月、トリニテはツアーに出発する。

今回の移動は、全員車1台に同乗する。これは困った。私は他人とある一定の時間以上一緒にいることがものすごく苦手だ。しかも車という狭い空間の中というおまけつき。

さてどうしよう。




そんな時、神戸公演のことでネットを検索していたら、偶然以前に書いた自分のブログにたどり着いた。

2011年11月25日 (金) BrilliantNoiseライブ そして砂女


そう、これはビエンナーレ神戸のコンペの一環で展示されていたゼロバイゼロのインスタレーション作品、ブリリアントノイズの中で強行したライブの直後に書いたもの。
今思えば、いいと思うこと、伝えたいと思うことはなにがなんでもやるという、今日の行動パターンの原点となった出来事だった。誰からも頼まれず、期待もされず、ギャラも交通費も出されず、特別な理由もみつけられないまま、何かに突き動かされるように神戸に向かい、ブリリアントノイズのもとで、たまたまそこを訪れた人たちと暗闇の中、時間と空間を共有した。

そして音楽を糸電話にして話をしたんだと思う。




あれから一年半がたった。
あの時なぜインスタレーション作品の中で音楽を演奏をすることに惹き付けられたのだろう。


wikipediaによれば、インスタレーションとは「場所や空間全体を作品として体験させる芸術」とある。
そう、ライブへ足を運ぶ、音楽を聴きにいくという行為は、好きな時間にたったひとりで好きな音楽を楽しむのではない。あえていやな思いをするかもしれない場所や空間へ出かけていって、外れるかもしれない音楽を聴きにいくということなんだ。

そこには知らない人の目があって、見なれない椅子と親切ではない空気、グラスの触れる音や誰かの話し声も聞こえる。インスタレーション作品の作家が空間を体験することで何かを問いかけ、考えることを促すように、ライブをすること、それ自体がその場に居合わせた人たちと共に体験するインスタレーションであり、その空間こそが音楽を送り出す側と受け手が相互に語りあえる対話の場なのだ。



自分が感動したこと、悲しいこと、嬉しいこと、いや、もっと小さなきっかけでもなんでもいい。

思いを伝えるために作曲をする。

一方的にどなっても、誰にも聞こえないように口ごもっても、伝わりはしない。伝えるためには対話をしなければならないのだ。



ずいぶん長い間音楽に携わって来たつもりでも、ライブという場での演奏を怠けて来た自分が、なぜ作曲して録音するだけではだめなのか、なぜ聴く人たちのいる場所で演奏をしなければいけないのか、この出来事は、その答えを教えてくれた。

そして今日。この動画と出会う。

それから自分のページにシェアした。

「普段から、音楽は時間に支配されている表現方法であるということを感じているけれど、音楽は対話であり、対話こそ時間をかけるものである、だからこそここに音楽があって、時間をかけてこそ意味があるということ。」

 

人が苦手で自分を嫌いな人間が、人と対話を試みる。
ずっとやってこなかったんだから、最初からうまくいくはずもない。
試行錯誤を繰り返して、少しずつ対話ができるようになりますように。





                                 トリニテJapanツアー2013

2013年6月24日 (月)

写真がうつしだすもの

シニフィアン・シニフィエ4/29@インエフのフライヤーは、トリニテ5/10@新世界と同じく
写真家の坂中雄紀さんの作品をもとにデザインされた。

Web_dm0510_4

Web_dm0629_4


写真も、書く文章も、考え方もとてもすてきな人。
そしてとてもやわらかな人。



はじめてあったときの言葉は
何もないところ いいです
だった。


最初は気づかなかったけれど
彼はわたしのブログのことを言っていた。


そう言われて
改めて読み返す。


 

人に与えられた何かを確かめに行くのではなく、自分が行きたいところで時間を過ごす。

何もなくていい。何もないところで、もし自分が何か見つけたとしたならば、それはそれで嬉しかったりする。たとえ見つからなくても、何もなくても、そこで過ごした時間は自分の中に残る。

何もないところ





そして彼の作品を見て
その言葉がなにを意味していたのか
少しわかったような

写真がうつしだすもの。






坂中雄紀 http://sakanaka-yuki.tumblr.com/

2013年6月23日 (日)

20130629シニフィアン・シニフィエ@インエフ

Web_dm0629

現代音楽なんて聴くと、ちょっとと腰がひけてしまう…。
でも気づかないまま、普段耳にしている曲の中に、意外とまぎれているものも少なくありません。

「2001年宇宙の旅」、「ピアノレッスン」、
映画の中では数多くの現代音楽がサントラとして使われています。

こわくなければお化け屋敷ではない。
こわくてもホラー映画を見たくなることもあるはず。
こわいといわれる現代音楽は、残念ながらそこまではこわくないかも。
でもあえて、こわくないとは明言しません。

懐かしいあの曲ではないけれど、そこには現代に生きるわたしたちに様々な映像を見せてくれる。
そしていろいろなことを静かに思い起こさせてくれる音楽がきっとあります。

それを確かめにいきましょう。
わたしたちは、そんな作品を、さらに普段使いで演奏してあなたの側にお届けします。

シニフィアン・シニフィエ~現代音楽をカバーするライブ

6/29(土) LIVE・シニフィアン・シニフィエ
shezoo(piano)、壷井彰久(violin)、小森慶子(clarinet)、大石俊太郎(sax,fl)、水谷浩章(bass)
大泉学園・インエフ 03-3925-6967 
20時開演
charge: 3,000円(+オーダー)






                                photo:坂中雄紀

2013年6月 2日 (日)

ひまとたいくつは違う

Photo_4

音楽が時間に支配されている以上、音楽を聴いてもらうということは、その人の時間をもらうということである。

人生は有限のものであるから、その中の大切な一部を見ず知らずの私のために切り取って下さい、と言えるのか。
音楽は心を豊かにするから、なくてはならないものだから、痛みをいやしてくれるものだから、好きだから、そんな面倒なことを考えること自体が無意味であるし、そんなことを考えているような音楽ならよけい聴きたくなくなると言われる。
でもそんな特効薬のような存在の音楽は、その人にとっての薬となるのであって、ひとたび自分には合わない薬を飲まされたとしたならば、どうなるのか。逆効果になって、毒と化してはしまわないのか。
だからといって、自分を否定して自分に反する音楽を作ることなんて、もっと意味がない。

多様化した現代において、誰もが音楽を発信する権利を有し、行われるライブの数は半端でない。プロと言われる人の音楽がすぐれているわけでも、優れている音楽がいい音楽でも、いい音楽が自分が必要としている音楽でもないとしたならば、わたしはいったいどう音楽と向き合っていけばいいのか。
そんなにマーケットの大きな音楽じゃないんだから、やれるときにやって、聴きたい人が聴きにくればいいじゃない、という意見はもっともだし、それ以上考えることも語ることも所詮大海に一石を投じるだけにすぎない。そんなことはよくわかっている。

音楽は博打だ。最後の最後まで、つまり聴き終えるまでは天国か地獄かわからない。
博打なんだから外れても仕方がないと割り切っているならば、ジャケ買いして外れても、付き合いでいくライブで自分にはつまらない音楽を聴かされて無駄に時間を費やしたところで文句はいうまい。
そして商品のパッケージを全部開けて中身を確かめることはできないのだから、まだふたの開いていない商品の中に、自分が求めている音楽があったとしても。そのふたを開けることのできないまま、一生を終える。
そんなことだけでいいのか。もっと何かできないのか。


シモーヌ・ヴェイユ「時間への恐怖」から
時間は人間にとってもっとも深刻かつ悲劇的な気がかりである。唯一の悲劇的な気がかりといってもよい。想像しうる悲劇のすべては、時間の経過という感覚をもたらす源泉である。
厳密にいえば、時間は存在しない(限定としての現在はともかく)。にもかかわらず、私たちはこの時間に隷属する。これが人間の条件である。


その時間に従属する音楽は人を幸せにし、さらにその音楽に従属する私は時間と音楽の狭間で立ち往生したり右往左往する。






あとがき
ものすごく混沌とした頭で書いている文章なので、後で読んだらいたたまれなくなってすぐに消しちゃうと思う。
ま、読んでいる人もいないだろうからいいや。

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