作曲をするということ@辻康介 作曲家・ピアニストと二人ライブその4
辻康介 作曲家・ピアニストと二人ライブ その4
3月24日(日)
辻康介(歌) shezoo(作詞作曲・ピアノ)
千駄ヶ谷・音楽室3F(渋谷区千駄ヶ谷2-10-1木島ANNEX3F)
16時開演(15時30分開場) 19時開演(18時30分開場)
charge:¥2,500 限定20名(要予約)飲み物持ち込み可
予約・問合:DaNemo (ダ・ネーモー)mailto:nemotsuji@mac.com
今回、このコンサートのために2曲新曲を書いた。
寺山修司と滝口修造の詩に、正しくは書いたというより書き捕った感がある。
歌の曲を書く作業は、同じ音楽にもかかわらずものすごく特別なものだ。
まずは言葉があって、それから音がある。送り手の都合で、それが逆になったとしても、聴き手はまちがいなく言葉を先に受け取る。
自分で書いた詩の場合には、順番がどうであれ、ふたつは相まって発生してくる。
でも詩ありきの場合、まず自分が読み手になる。
詩を何度も読んで読んで読んでいくと、自然と音と曲が詩にくっついてくるので、それを湯葉みたいに掬って書きとる。なかなか掬い方がむずかしくて、別の間違ったものもすくったりするから時間がかかる。
この曲が聴き手にどう響くのか、日曜日が待ち遠しくてこわい。
そもそもいい音楽って何だ。
誰にでも開いている音楽が存在するはずもなく、開いてる人の種類によって音楽のヒエラルキーが存在するのか。
さもなくば多くの人が支持する音楽がいい音楽なのか。
たった一人が好きでたまらない音楽はいい音楽ではないのか。
そんなことがあるはずもなく、手軽にダウンロードして、誰もが自分だけのプレイリストを作れる自由を得られる現代においては、自分だけの1曲こそが大切なのだ。
いや、誰かだけのいい音楽は、時代も場所も飛び越えて、ずっと存在し続けているに違いない。
ならば、作曲者はどこを向いて音を作ればいいのか。
掬い捕った音楽なんか歌ってもらって、聴いてもらっていいのか。
音楽に正解はない。
でも、答えはきっと存在するんだと思う。
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