無意識を掘り起こす
父の兄が死んだ。
ずっと容態が悪く、ひと月前には危篤だから会いにきてほしいと連絡があったらしい。
それでもいったんは持ち越して、落ち着いていた矢先のことだった。
叔父は兄弟の中でも父によく似ていた。足が不自由な父は自分が葬儀に参列するとかえって迷惑がかかるということで、ふるさとの山形に帰ることを断念した。父は普通に振る舞っていたし、夕飯の時にはいつものようにビールを飲んで、いつものように冗談を言ったりしていた。でもその実、心の中では何を考えていたのだろう。
そういえばこの間、実家近くの酒屋の看板おばあちゃんがいなくなっていることに気がついた。いったいいつからいなかったのか。心なしかその息子も白髪が増えて、ずいぶん年をとったように見える。建物も、周りの風景も変わらないのに、そこからは風景の中にとけ込んでいた、いるはずの人がいなくなっていた。
祖父母が早く亡くなった割には両親が未だ健在なわたしは、自分に近しい存在を失う経験がないといえばない。そんな言い訳をして、あまり真剣に考えたことがなかった。
命には終わりがくるのだから、いずれは順番が来て、世代が替わる。自分の記憶の中にいる人間が、ひとり、またひとりといなくなることを、年を重ねて生きながらえた人間は経験しなければいけないんだ。早く死にたくはないけれど、それって相当きついな。でも若くして命を落とした人たちの無念さを思えば、こんなわがままを言ったらばちがあたる。長く生きた分だけ、つらいことも経験しなきゃだめなんだろうと思う。
有名人の葬儀で「いずれ俺たちもそっちに行くからな」とか「先に行ったあいつと酒飲んでるか」みたいな言葉を送っているのはこういうことだったのか。
高齢になって動けなくなった犬やネコも、ろうそくが消えていくように自分の死期をじっと待っているように見えることがある。人もそんな風に、まわりの変化を受け入れながら、自分の寿命を知るのかもしれない。
人はなぜ生まれて死んでゆくのか。消耗品のようにわらわらとその循環を繰り返しながら歴史は続いてゆく。わかりそうでわからない、解けそうで解けない問題の答えが目の前に見えない壁を作ってそびえている。
山形へ行く。父の代わりといったって、代わりにはなれないんだけど。








