
ひとつの曲の中に、いったいどれだけの可能性を秘めているのか。
バッハの作品にはたくさんのおいしい素材が骨組み自体にたっぷりと溶け込んでいる。
同じアレンジをするのも、宇宙に匹敵するほど奥の深いバッハの世界観に触れながらの作業は至って楽しい。
たとえ「ひとつの素材にしても様々な料理法、たくさんの『表現の可能性』があることに驚かされる」と、食と美術の関係について書いている島袋道浩展に行った。
またその関係については、食べるのも料理するのも好きで、それは新しい作品の発想やヒントになる、という。 米を洗ってから炊くという常識を持つ日本人の彼が、そのまま炒めることで調理が始まるイタリアのリゾットをおいしく食しながら、時には常識から離れてみるのがいいことを学ぶ。
今回の展示は、美術家にとどまらない芸術家、島袋道浩の作品の中でも食に関したものが多い。
「自分で作ったタコ壺でタコを捕る」
訪れたイタリアでしばしば食卓にあがっていたタコ。タコ壺など見たこともなければ、そんな漁の方法も知らない漁師と共に海へ向かった時の映像。小舟の上でいくつもいくつもタコ壺を引き上げる、がどれも空っぽ。やっと手応えを掴み、壺の中からタコが顔を出した瞬間、見ているこちらも思わず嬉しくなって笑口元がゆるんでいた。タコは浜辺で待つギャラリーに披露された後、そっと海に帰された。
「ワタリさんのところで食べる野菜や果物で作った北斗七星」と「タマネギオリオン」
表参道にあるワタリウム美術館の近所、トラックで売りに来る八百屋の野菜が星に替わって並んでいる。普段見慣れているはずなのに、新鮮で美しい。星のごとく尊い存在にすら感じられる。
その中で、「シマブクのフィッシュ・アンド・チップス」は静かに想いを放っていた。
イギリスの定番料理、海と大地との出会いを自分自身で表現したいと思い、海の底で転がるように浮かぶぼんやりとしたじゃがいもの輪郭と、それをつついたりしながら周りで戯れる魚を映像にしたという。
何気ない風景やふだん見慣れたものが新鮮に映り、生きていることの喜びが伝わってくる。
3階から4階に上がる外階段からは、街の喧噪をBGMとして隣のビル屋上に展示されているビルボード写真「象のいる星」を楽しめる。
ここには椅子が置いてあり、小さな張り紙があった。
『花のお茶 300円』
そこに書いてある番号に電話をかけてみる。しばらくすると、温かいジャスミンティーが運ばれて来た。耐熱性グラスの中でジャスミンの花が揺れていた。
周りに高い建物がないせいか、遠くまでよく見える。西日に輝く表参道の街を、こんな形で上から見る事ができるとは夢にも思わなかった。

そうか、ここは地球なんだ。
生きるとは、どういうことなのか。
展示物がむずかしい問題を投げ掛けてきた訳ではない。
自分の中で、そんな疑問がごく自然に沸き上がってきた。
今、雨風をしのげる家に住みごはんを食べる、そんな生きるために最低限必要なことすらも叶わない人たちが、かつて裕福なはずだった国、日本においても急激に増えている。 天災、人災に関わらず、私たちの住む地球は、いつからこんなにも生きることに厳しい星になってしまったのか。
水と緑に溢れ、太陽の光が降り注ぎ、生命の象徴のような存在だったはずの星が悲鳴をあげている。声高にエコを叫ばなくとも、この星が病んでいることくらい百も承知だ。
自分は何ができるのか。
エコソングを作って歌ってみる?→→→→→→→→→→→→→→→→→いや、それは違う。
相も変わらず非力な自分と、またもや向き合うはめになった。
「運が良ければ買えるアーティストブック」
ホームレスに仕事を提供し自立を応援するために作られた雑誌、ビッグイシューとのコラボレーションとして、ワタリウム美術館近辺でビッグイシューを売るホームレスに「象のいる星はありますか?」、または前出の八百屋さんに「トマトと象はありますか?」とささやくと、ゴソゴソと本を出してくれて購入できるというもの。運のよい私は、日曜日限定で美術館前に店を開く石ちゃんから入手することができた。

ナマコを最初に食べた人が「これは食べられるのではないか?」と思った自由な発想力、口に入れてみる勇気と実行力こそが新しい「作品」を生むには必要である、とも彼は書いている。
新しいという言葉に「以前と違う」という意味もあるらしい。
初めての新しさだけでなく新旧が入り交じってもいい、現状を打破するためには、こうであるはずという思い込みから一歩足を踏み出した発想、考え方の柔軟な展開が求められているのかもしれない。
2009.1.12