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2011年11月25日 (金)

BrilliantNoiseライブ そして砂女

Biri4

3.11を境に、自分には音楽しかない、音楽を発信し続けることが自分のできることだとわかった。
音楽に携わる人たちから、そんな言葉をよく耳にする。
確かにあの不気味な揺らぎは、直接的な被害に遭わなかったわたしたちに、皮肉にも良い意味で色々なことを考えるきっかけを与えてくれた。


自分にとっては明日が永遠のものではないという事実を目の当たりにして、音楽をやり続けることが自分の進む道だとはむしろ思わなかった。
確かに生きる糧を得ている意味においては、音楽を作ることで自分も生かされている。

でも、それがなぜ音楽なのか。




震災とは関係なく、この数年は音楽を作る理由を探し求めて来た。
初期の作品に「一人称の人々」という曲があった。利己主義的な考え方をする一人称の人たちを歌った内容で、簡単なコードとざかざかというつなぎ言葉で綴られていく。
今となっては楽譜は見当たらないし、内容も朧げだ。
ただ鮮明に覚えているのは、その曲を一緒に演奏した人たちの困惑した表情だった。
「演劇みたいだね」とか「たまにはこんなのあってもおもしろいね」とか。

全然演劇的でもなく、普通の音楽作品だったんだ。
その考え方は今でも変わっていない。

私は一体何がしたかったのだろう。


BrilliantNoiseライブ@神戸ビエンナーレ「輝きを揺らすもの〜存在の不確かさ」
元町駅から地図と住所をたよりに会場を探していった。
住所の表示がよくわからなくて、1時間ほどうろうろした。
町の人に聞いても、すごく丁寧で親切なんだけれど、みんな言うことが違う。

この迷路から抜け出せるのか、ふらふらと歩いていたら、誰かが腕を掴んだ。
顔を上げると阪神の震災でも生き残ったモトコーこと元町高架下商店街の入り口がボオッと目の前に現れた。そして一歩足を踏み入れた瞬間から、私はあっちの世界にぐいっと引き入れられた。
地方の商店街にありがちな多くのシャッター状態ではあるものの、古着屋、立ち飲みスタンド、アンティーク、呑み屋、パチスロ、子供服、履物屋、宝石箱のような店が並ぶ。
その中に、高架下アートプロジェクトの展示作品が、あたかもテナントのようにさりげなく入っていた。

そのひとつ、ゼロバイゼロのBrilliantNoise。
音に反応するという電球が天上から結構行儀良く並んでいる。
音がトリガー(スイッチ)になっていて、ライブが始まる前から、高架上の電車の通過音や、自動車の通過音に電球は反応していた。
そこに時折漂う、醤油のこげるニオイ。

すぐそばに居ながらなかなか辿り着けない、そんなあやしくも魅力的な商店街の一角で、人々は音と交叉する音楽に耳を傾け、天上の光を感じていた。
MCでエラそうに「音楽はコンサートホールやライブハウスの中で演奏されるだけではないはず」と言った時、大きな反応があった。
そんなことは周知の事実であって、誰もが自由に音楽を奏で、楽しめばいいのだ。
でも、私が言いたかったのは違う。

音楽を受信するアンテナが耳だけではなくて、視覚、触角、今回自ら学んだ嗅覚も、もしかするとさらなる可能性もあるのかもしれない。


音楽にはたくさんの側面がある。
今の自分を勇気づけてくれるもの、安らぎを与えてくれるもの、昔の時代を思い出させてくれるもの、知らない世界を見させてくれるもの。

音と音楽の違いは、聴くためのある一定の時間を強要することにある。
どれほど技術が向上した所で、録音も録画も実際の醍醐味を再現はできない。

でも、それ以上に、インスタレーションライブはその時、その場所に送り手と受け手が同時にいなければ中身を伝えることはできない。
それは、空間と時間を共有したものだけが得られる体験なのだ。

私が扱える媒体は音楽。
意味を持って与えられた空間で聴く音楽によって、聴き手に何かを考えるきっかけを作るということを提案し続けていく。


それが音楽を作る理由になるのか、インスタレーションライブの定義につながるのか。

2011年11月13日 (日)

聴くこととか見ることとか

Gaudi

時代の流れに惑わされず、残り続ける音楽は、普遍的に良い音楽なのだろうな。
たとえばジャズのスタンダード、民謡やフォークソング、そしてクラシックの作品とか。
これらは楽曲のバランスの良さと完成度の高さから、映画やCMでもしばしば使われて来たのは誰もが知る所だ。

そんな名曲の数々を選曲して、センスがあると評価のあるのがソフトバンク白戸家の一連のCMだ。
チャイコフスキーに始まりドビュッシー、B・クロスビーの「Let It Snow! 」、エディット・ピアフと、ここにきて当初のクラシック路線から離れていわゆる名曲にシフトして来ていたから、次は何が出るのかと期待していた。


新シリーズ「スベテノヒトニアイヲ」
前半は音楽がない。
終わりの方になって、遠くから誰かがやってくるかのような、あのわくわくするイントロが聞こえてくる。

ああ、白戸家はここに行き着いたんだ。
それはCMに携わる人が一度は気になり、そして多くのミュージシャンに影響を与えたであろう曲、30年ほど前にサントリーローヤル ガウディ編で使われたマーク・ゴールデンバーグの「剣と女王」

この曲はゴールデンバーグのアルバム「鞄を持った男」の中に収録されている。
アルバムは、今でこそアマゾンでも普通に購入できるけれど、配信もなかった頃は中古ですらなかなか手に入れることができなかった。
それでもなんとか手に入れて、嬉しくてさっそく聴いた。
この一連のCMに使われた曲が3曲も入っている。
何ともいえない、収まらない感覚がすばらしい。
繰り返して聴いた。

でも違う。何かが違う。
あのCMで聴いた時に受けた、あの感覚にはほど遠い。
確かにマルチでたった一人で録音したものだから、当時の楽器のポテンシャルを考えれば寂しいのは当然と言えば当然のことなのだけれど、そういうことではない気がした。

その後、ことあるごとにYouTubeでCMを見た。
あのわくわくは何度見てもやって来てくれる。
そしてやっとわかったこと。
私はこの曲を目と耳で聴いていたんだ。
あの強烈な映像とランボーへのフレーズが読まれる中で流れる音楽こそが、この曲のイメージだったに違いない。

基本的には、どんな映画や映像で使われていた音楽でもできるだけ切り離して考えるようにしていたつもりだし、一定の曲をヘビーローテーションで聴くことはないから、過去の自分と記憶がリンクすることはないと信じていた。
それでも白戸家のCMでは、イントロが流れてくる度にTVに目がいってしまう。
でもそこには当たり前のように、ランボーはいない。
良い音楽をも完全に取り込んでしまうほど強烈なインパクトが、あのCMにはあったのだ。
私の音楽に対する聴き方など、木っ端みじんに吹き飛んだ。

人は耳で音楽を聴いていると確信している。
物理的には耳から入ってくるのは間違いない事実だから。
でも、脳は鈍感なんだろう。
目と耳と、またある時は肌で受けた感覚を、あっという間に他の感覚と錯覚して、あたかもそれが当然だったかのように記憶していく。


いくら耳で聴いてもらうことを前提に音楽を送り出していても、どこで受け取るかは受け手の自由であるという特権こそ、送り手としては何よりも大切にしなければいけないのかもしれない。


2011年11月 9日 (水)

shezooによるふたつのインスタレーションライブ

Photo_2


① Brilliant Noise ライブ
日時:11月19日(土)18時40分〜19時20分
場所:元町高架下(JR神戸駅〜元町間)モトコー5#250
神戸ビエンナーレ高架下プロジェクトBrilliant Noise展示内
http://www.kobe-biennale.jp/compe/kouka/2011.html
出演:shezoo(ep), 多治見智高(vl)
題名:輝きを揺らすもの〜存在の不確かさ
概要:音に反応する白熱電球が吊らされたBrilliant Noise(oxoxo作品)におけるピアノとバイオリンによるインスタレーションライブ
問合:プラネットEartH 050-3716-3540
planet1@motokou.com


② 川崎市市民ミュージアム プロムナードコンサート
場所:川崎市市民ミュージアム 逍遥展示空間
http://www.kawasaki-museum.jp/
日時12月11日(日)  13:30〜14:00/15:00〜15:30
出演:「Triniteトリニテ」shezoo(pf)、壷井彰久(vl)、小森慶子(cl)、岡部洋一(perc)
題名:自然の光を揺らすもの〜存在の確かさ
概要:自由に作品を見ることを目的として美術館内に設置された逍遥空間。ここに降り注ぐやわらかな光と展示作品、そしてピアノ、バイオリン、クラリネット、パーカッションが紡ぎだすTriniteの響きによるインスタレーションライブ。
問合:川崎市市民ミュージアム 企画広報044-754-4500

Shezoo_live_2

アイドルとアートを結ぶキーワード

Hokuto7sei

このブログで、まさかアイドルのことを書くとは思わなかったし、読んで下さる方にも居心地の悪さを感じている方が多いと思う。
だから、あえて書く。


AKB48の海外進出に対して、プロデューサーの秋元康氏が伝える番組を見た。

AKB48のシステムは、私たちは頑張っているという姿勢を真摯にファンにアピールすることで、この子たちが頑張れるなら自分も頑張れる、だから応援したいという図式でアイドルを作り、ファンに届ける。世界共通のコンセプトをしっかりシステムとして構築していた。

そのシステムには、秋元氏のアイドル展開のためのフォーマットが準備されていて、どのグループに何人配置するという実務的な内容も共存するらしい。 しかし、AKBのプロジェクトの中でも、フォーマットに振り回されて、コンセプトの大切さが理解できなかったプロジェクトにおいては、必ずしも成功しない事例もあったという。
番組を見ていたはずなのに、コンセプトの意味を正しく理解できていなかったであろうアナウンサーは最後に「要するに側にいるようなカワイイ子がいいんですよね」と残念な発言をしていた。一体彼女は何を見ていたのか。従来のような考え方でアイドルを立ち上げたところでは、アイドルが「側にいるようなカワイイ子」ではなくなった瞬間、ソフトとしてのアイドルの役目は終わるのだ。
つんく氏はとても才能のあるメロディーメーカーだから、モー娘もあれほど一世を風靡したのにソフトの魅力がなくなったら続かない…。
なぜ、AKB48はチェーンのように繋がるのか。


共通言語としてのコンセプトがいかに大切か、改めて考えてみる。

ミュージシャンでもアーティストでも、表現は当然のようにみんながしていること。伝える先に何かを届けるだけはなく、何かを考えてもらえる状況に持っていくことこそ、秋元氏の言わんとするコンセプトなのではないか。


河原温は絵はがきを書いて送った
島袋道浩は自分で作ったたこ壷でたこを釣って料理を作って食べた

何でもないことが、人に「考える」を与えるきっかけになっていく。

表現の内容はまったく違っても、その意味に於いてはアイドルも、アートも、決して変わりはない。


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