ほんとうの気持ち
ケンウッドショウルームで行われるライブの打ち合せで有楽町へ。
この日はびっくりするほど道がスムーズ。お天気もいいし、晴れやかな気持ちで高速を降りると、桜田門付近が妙に込みあって雑然としていて、法務省の前には沢山の報道陣が車を待っている様子で車道に出ている。何だろう。ニュースをチェック。そうか、朝青龍が裁判の証人にくるんだ。
実は結構裁判の傍聴とかが好きだったりする。難しい司法や法曹界のことは一切わからないけれど、阿曽山大噴火の「被告人、前へ」や「気分はもう、裁判長」(北尾トロ著)などを読んだことがきっかけだったかもしれない。
喧嘩ごしで罵りあうケースもあれば、最初から原告と被告が互いに打合せていたような穏やかな裁判もある。何だかドラマを見ているよう。いったい裁判て何なのか(σ゜д゜)σ?
最近はなかなか時間がとれずにいるけれど、よく傍聴に行っていた頃は、人の数だけそれぞれの人生があるのだということをつくづく思い知らされた。
人は皆、価値観も考え方も違う。自分と同じではない人が存在する以上、そして己の権利を主張しようとすれば、そこには諍いが生じる。裁判という制度は、それを第三者に判断してもらう事で中立的な答えを得ようとすることなのか?
それがたとえ正当な理由であったとしても、下された結果が関わった人間にとって必ずしも納得のいく内容であるとは限らない。結局は人間のする事に変わりはない。敗者に不満は残る。
だったらいっそのこと、判例を全部入力して、コンピューターに委ねた方がいいんじゃないですか?
これはいまどきの子、アシスタントの意見。
まさか大岡越前の裁量を今日に求めるわけではないけれど、たとえ現実味はなくとも、それもひとつの考え方なのか。
そんな中、来年からは刑事裁判において裁判員制度が実施されるという。私が見聞きしてきたのは、あくまでも民事だから、当事者は真剣そのものであっても、傍から見ればドタバタ劇のようなケースも多かった。でも刑事となれば話は別だ。人の生死を左右する事もあるだろう。自分がその立場にあった時、果たして正しい判断ができるのか?迷う心の中、身近な人たちに秘密の保守が本当にできるのか?
ぐるりのことを見ながら思った事>>>
裁判の審議に関する推移を客観的に判断するためには、それなりの時間と経験が必要であるということ。
そして。
自分の気持ちこそが、自分自身ですらわかっているのかどうか、わからないということ。
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真相究明のためとはいえ
真実とは異なる世界。
それが判決に示された世界。
真実は人の記憶を経ると
それは既に再現不可能。
ある意味音楽も
絶対的なようで相対的かも。
音は絶対的な存在なのかも知れないが
環境などの色々な要素に左右されるため同じ音は二度と存在しないのかも。
また、人の感性を経て自分のものにすることを考えると、それは個人個人全て違うもの。
となれば
音楽の共有って
なんなんだろうか。
共通の体験って
何なのだろうか。
とも思わないではないかも。
投稿: hirai | 2008年10月24日 (金) 04時16分
文とはあんまり関係ないかもしれないけど写真は運転中のものですか?運転気を付けてくださいね。
裁判員制度は何となくですが早速自分にその役目が来そうな予感があります。人を裁く一員になるのでしょうけど私には荷が重い、その人を全部知ることは無理なわけだし状況だけでバッサリ出来るわけがない、ってその場で主張したらどうなるんでしょうか?
投稿: Sweeper | 2008年10月25日 (土) 08時56分
hiraiさん
物事の多くは、人というフィルターを経てその先の人たちへと伝えられてゆくということなのでしょうか。
記憶に真実を求められない分、音楽は永遠に欲される存在であり続けるのかもしりません。
投稿: shezoo | 2008年10月28日 (火) 14時52分
Sweeperさん
>バッサリ出来るわけがない
どうなるかはわかりません。でも、本当にそんな心境になるでしょうね。
ましてや、そう言い放ってくれる人が出てきそうな予感もします。
投稿: shezoo | 2008年10月28日 (火) 14時59分