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2008年8月30日 (土)

理屈の海を泳ごう

理屈の海を泳ごう
毎年のように、夏になると海に行きたくなっていたのは、遠い昔のこと。いつからそんな想いは消滅してしまったのだろう。
でも今年のようなハンパでない猛暑は、久しぶりに遠い記憶を甦らせてくれた。

最近、もしかしたら自分はある種のオタクかもしれないと思い始めている。

オタクの定義とは。
Yahoo辞書にはこうある。
『ある事に過度に熱中していること。また、熱中している人。
◆「オタク」と書くことが多い。1980年代半ばから使われ始めた言葉か。初めは仲間内で相手に対して「おたく」と呼びかけていたところからという。』


何かに過度に熱中している人なんて、昔からわんさかいたはずだけれど、以前はそこに特別なカテゴライズなど存在しなかったのではないか。

甲子園のスタンド360度を埋め日本各地の試合へせっせと足を運ぶタイガースファン、ヨン様を慕う想いが募るあまりハングルを学び日夜ビデオで涙する奥さま方、あんなに熱狂していても、誰も彼らをオタクとは呼ばない。

前向きな姿勢と純粋な気持ち、健全な心がある以上は決してオタクにはなれないのだ。

その資格を得るためには、どこか痛くて病んでいなければならない。

そもそものオタクとは、斜にものを見る彼らが自分たち自身に貼ったレッテルであったらしいし。

「タブーの下には、エネルギーが吹き溜まる。」
ミック板谷さんはそう言っていた。

ある時、「個」よりも「群」を美徳としてきた日本人社会に、個性とかアイデンティティーの爆弾を投下したのだから、タブーの下で燻っていたオタクのパワーが常識の壁を一気に決壊し、今や多種多様のナカーマを輩出する勢力に至ったのは当然のことかもしれない。

そして自分のこと。
当てはまる点が、年を重ねるごとに増えている。


小学生の私は、「原爆の子」に涙し「メッサーシュミット写真集」に胸踊る矛盾だらけの子供だった。


今の私にとっては、貯水タンクもウミウシも石油コンビナートも、こだわるすべてが支えではあるけれど。


いったい自分とは何なのか。

そんな私はこの夏、哲学書を読みまくったのであります。

幸福について
パンセ
方法序説


哲学は何の役に立つのか?

自分の存在や考え方に対する理由付けとして生み出されたものであることは理解できた。


でもね、理由付けとか裏付けといってしまえば美しい正論だけれど、それって見方を変えれば理屈対理屈のこね合戦にもなり得る。

確かに自分探しへの投石にはなったとしても、結論が出るはずもない。

自問自答しながら、それでもいいじゃない、と思い始めた。
こんがらがった理屈の渦に身を委ねることが、今の自分の泳ぎ方なのかもしれない。

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コメント

「自分とは何なのか」

この疑問こそ古今東西、哲学が挑んできた課題のような気もしますが、自分でもわかるようでわからない。

頭だけでもない、心だけでもない、何か自分の奥深い
所での実感というか、そこで確信めいたものにならないと
どこかさまよってしまう感じがしますね。

意味のない生死はないはずだから、自分の存在は
多いに何らかの使命がある。そのために自分がいる。

僕は自分の為じゃなく、少しでも人の為に動いた時
ひょっとして僕の存在って・・・・
そんな存在理由の一つを感じれた事があったような・・・・。

tadyさん

ご指摘のように、哲学の命題が究極の自分探しであるということはその通りです。

その世界に彷徨う中、自分自身の感覚と感性が見えている時と見えなくなる時があります。

作曲をする時にどの一音から始めるのか、その重責を感じるときがあります。
哲学は、そんな時の指針になっているのかなと思いました。


でも、私の文中では言葉の曖昧さが良くないです。
もっと、言葉の意味を精査し、使い方を選ばなければ、真意は伝わらないと反省です。


InPUTが多すぎると溺れる
OutPutしないとやはり溺れる
どうやらいろいろな意味でバランスをとっていかなければならないようです。食べすぎたら運動しなきゃいけないし感動したものがあれば誰かにそれを伝えるかそれに触発されて自ら創造するとか。
オタクという言葉は自分以外の人がカテゴライズの枠に入れるだけのものですから私は意に介さないです。
でも自分って何?という疑問も自分以外の人達がいるからそう思うことでとても悩ましい事象です。

Sweeperさん

遅ればせながら最近気づいたのだけど、自分て何?は、老若男女、みんなが思っていることなんですね。

決して思春期だけのものではなくて、人は一生その命題を解くために歩み続けるのかなと。

自分の両親を見ていても、ひたすら穏やかで安息な日常を送ることよりも、どうあれば社会の中でのパーツとなり得るのか、自分の役割が何であるのかを探しているように感じます。

人が生きて行く原動力は食べて寝てという根本的な必然性を越えた、プラスαのモチベーションが必要なんですね。

ホントに考える葦だわと思ったです。

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