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2008年8月31日 (日)

音も光もない世界で

音も光もない世界で


福島智

ろう盲者。東京大学先端科学技術研究センターバリアフリー部門准教授。


その人が書く文章は、力強く飾らない言葉で、容易に読むものの魂をその世界に引き込んでいく。


以前、NHK「ようこそ先輩」で小学生の後輩に対して授業をする彼を見たことがある。

9才の時に光を失う直前、薄れていく視界の中で、表しようのないほどの恐怖と戦いながら、彼は未来の自分を見つめていたという。
もう、自分の顔を見る事もできなくなる。

15才の時には音も失った。


給食のとき、一言も会話を交わさず食べるよう彼は子供たちに伝えた。
たったそれだけのことなのに、教室はいたたまれない空気に包まれた。

けんかをしたり、いじめられたり、邪魔をされたり、他人とコミュニケーションを交わさねばならない社会で生きていく上には、必ずしも楽しいことばかりではない。
そんなことは充分わかっているはずのに、身近な人間、家族に対してすらも容易に傷つけ、自らも傷つく。
そして、簡単に「死にたい」という言葉を口にする。

カタカタという食器の音だけが聞こえてくる時間、子供たちは何を感じ、何を思っていたのだろう。


彼の書いた「光、音、言葉」という文章がある。

読むたび、その文の美しさに我を忘れてしまう。
かつて見た情景を、聴いた音楽を、彼は閉ざされた目と耳の中で風化させることなく、日々大切に育んでいた。
開きっぱなしの目と耳を持つ者は、見えること、聞こえることが当たり前となり、見ようとする、聞こうとすることがいつしか億劫になってしまった。

彼は
『「音」には色彩があり、きらめきがある。そして、常に「時間」とともに音は流れる。「光」が一瞬の認識につながる感覚だとすれば、「音」は生きた感情と共存する感覚なのかもしれない。』
とした上で、文章の最後にこう綴っている。
『「光」が認識につながり、「音」が感情につながるとすれば、「言葉」は魂と結びつく働きをするのだと思う。私が幽閉された「暗黒の真空」から私を解放してくれたものが「言葉」であり、私の魂に命を吹き込んでくれたものも「言葉」だった。』

まったく光の入らない空間を全盲のアテンダントの誘導で歩くという体験型のイベント「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を経験したことがある。

私は、音に色彩やきらめきを与えることができているのだろうか。

音を生きた感情につなげていられるのか。

音も光もある世界に生きる者として、自問自答を続けていかなければいけない。

2008年8月30日 (土)

理屈の海を泳ごう

理屈の海を泳ごう
毎年のように、夏になると海に行きたくなっていたのは、遠い昔のこと。いつからそんな想いは消滅してしまったのだろう。
でも今年のようなハンパでない猛暑は、久しぶりに遠い記憶を甦らせてくれた。

最近、もしかしたら自分はある種のオタクかもしれないと思い始めている。

オタクの定義とは。
Yahoo辞書にはこうある。
『ある事に過度に熱中していること。また、熱中している人。
◆「オタク」と書くことが多い。1980年代半ばから使われ始めた言葉か。初めは仲間内で相手に対して「おたく」と呼びかけていたところからという。』


何かに過度に熱中している人なんて、昔からわんさかいたはずだけれど、以前はそこに特別なカテゴライズなど存在しなかったのではないか。

甲子園のスタンド360度を埋め日本各地の試合へせっせと足を運ぶタイガースファン、ヨン様を慕う想いが募るあまりハングルを学び日夜ビデオで涙する奥さま方、あんなに熱狂していても、誰も彼らをオタクとは呼ばない。

前向きな姿勢と純粋な気持ち、健全な心がある以上は決してオタクにはなれないのだ。

その資格を得るためには、どこか痛くて病んでいなければならない。

そもそものオタクとは、斜にものを見る彼らが自分たち自身に貼ったレッテルであったらしいし。

「タブーの下には、エネルギーが吹き溜まる。」
ミック板谷さんはそう言っていた。

ある時、「個」よりも「群」を美徳としてきた日本人社会に、個性とかアイデンティティーの爆弾を投下したのだから、タブーの下で燻っていたオタクのパワーが常識の壁を一気に決壊し、今や多種多様のナカーマを輩出する勢力に至ったのは当然のことかもしれない。

そして自分のこと。
当てはまる点が、年を重ねるごとに増えている。


小学生の私は、「原爆の子」に涙し「メッサーシュミット写真集」に胸踊る矛盾だらけの子供だった。


今の私にとっては、貯水タンクもウミウシも石油コンビナートも、こだわるすべてが支えではあるけれど。


いったい自分とは何なのか。

そんな私はこの夏、哲学書を読みまくったのであります。

幸福について
パンセ
方法序説


哲学は何の役に立つのか?

自分の存在や考え方に対する理由付けとして生み出されたものであることは理解できた。


でもね、理由付けとか裏付けといってしまえば美しい正論だけれど、それって見方を変えれば理屈対理屈のこね合戦にもなり得る。

確かに自分探しへの投石にはなったとしても、結論が出るはずもない。

自問自答しながら、それでもいいじゃない、と思い始めた。
こんがらがった理屈の渦に身を委ねることが、今の自分の泳ぎ方なのかもしれない。

2008年8月 9日 (土)

涙型の雨

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灰色の空。


こんなに暑いのに、相変わらず曇りだ。
晴れていたって、暑いことに代りはないけれど、あのどんよりとした雲を見ていると、気持ちまで重く垂れ下がってくるから不思議。


オリンピックの名のもと、昨日中国では降雨ロケット弾が天に向かって放たれた。ロケット自身が自然界に及ぼす弊害があるという情報は聞こえてこないものの、どう見ても病んでいるとしか思えない空に対して人間が自分の都合で企てた作戦は、その指揮者曰く「神様のおかげ」で成功した。


頻発する地震による津波や天災の猛威の前に、人間があまりにも無力であることは百も承知の上、あたかも挑戦的な態度で自然の働きに戦いを挑む行為は、何を意味するのか。


各地で報告される集中豪雨による河川の氾濫に、内水は外海へ辿り着けず、行き場を失い、地上を彷徨っている。被害をより拡大している原因に、川底までにも及ぶ過剰な河川工事があるという事。これはもう、人災と言わざるを得ないのではないか。

豪雨、雷、突風を引き起こすものが、積乱雲が涙型に伸びた「テーパリング・クラウド」と呼ばれる雲だという。その尖った先から落ちる雨が、諍いのない、平和な世界を声高に叫ぶ地球に落とされた大量殺戮兵器のごとく、たくさんの命を奪っていく。

2008年8月 6日 (水)

命をおもう

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「自分自身では、その長さは変えられなくとも、幅はいかようにも変えられる。」
後日、聞いた誰かの言葉。

「命の長さは、どうやら決まっている。」
大好きな写真家、前田博史さんからもらった言葉。



かつてTV番組「ワーズワース」で聴いた「シャリオン」の歌声は、ずっと私を魅了していました。
その歌手こそが河井英里。

後年、河井さん作詩と歌唱、shezoo作曲のプロジェクトがあったとき、それはそれは頑張っちゃったものの、残念ながら実現はしなかった。だから、昨年アウラのアレンジを担当されるということを聞き、同じフィールドに立てることは、本当に嬉しい出来事でした。

彼女がアレンジした「ロンドンデリーの歌」を初めて聴いたのは、スタジオだったでしょうか。
脳髄なのか心底なのか、静かに、でも確かに訴えてくる力は、私たちには見えていないものを聴かせてくれている、そう鮮明に感じました。



春頃、パスカルの研究者である田辺保のNHKアーカイヴを見ました。

パスカルの著書、パンセの教えとして、「人間は考える葦である。」という言葉があります。
その意味として「人間は自然の中でも一番弱い存在である。それは考える葦である。」私は、このよくわからない説を鵜呑みにしていました。

田辺氏の説はこうです。「人間は葦のように弱い存在である。しかし考える事が出来る。人間が他の動物と大きく異なる点として、自分の状況を把握する、死する自分の姿を理解する事ができるということ。そして、それがすなわち考えるということなのだ。」










8月4日、河井英里永眠

合掌

2008年8月 4日 (月)

鳥のカタログ

うちの近所に生息する鳥は、とにかく歌がうまい。

仕事が一段落する頃、ウグイスたちのセッションに始まり、さまざまな声が加わっていく。じっと耳を傾けていると、やがて空は白んでゆく。


テスト


いったい何種類いるのだろう。あの鳴き方は、何という名前の鳥なのか。


そんな事を考えながら、今年の春頃から鳴き声のスケッチを始めた。
まだ20個足らずだけれど、少しずつ増えている。


ピアノは、楽器のカテゴリーとしてはパーカッションであって、その中でも実音のリリースは短く、木管や弦楽器のように本物の鳥の声を表現をすることは極めて難しい。

それでもピアノでフレーズを弾いてみる。いつかもっと、鳥に近づけるように。

鏡の中の世界

鏡の中の世界
私の顔は、左右の目の高さが違う。
眉山の場所もずれているので、眉を書くとき左を少し外側に書くようにアドバイスされている。

だから、鏡に映る自分の顔に慣れているせいだろう、写真の自分、特に正面にはものすごい違和感を感じる。
それはきっと私だけでなく、多くの人が感じているに違いない。
シンメトリーの顔を持つ人なんて、現場の用心棒さんが大好きな香椎由宇ぐらいらしいからw。


何かを見るときに、焦点をどこに合わせるのかによって、その印象は大きく異なる。

記憶の中で、それが夢であったのか、現実なのか、意識が朧げな事がある。


鏡の先に三次元以上の世界があるはずもないとわかっていながら、向こうとこちらの世界がいびつに繋がっていると感じてしまうのはなぜなんだろう。

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