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2008年7月30日 (水)

希望に代わるもの

希望に代わるもの
「人の心にある音楽は決して奪うことは出来ない」

音楽が人間にとって一つの記憶の事象である限り、永遠に心から奪うことはできなきないという事。

しかしひとたび、深い悲しみにそれが結び付いたとしたならば、人は自らその音を封印する。


それなのに、耳がそのかけらに再び触れた瞬間、自分でも忘れていたはずの記憶は鮮烈に甦る。

人の心に宿った音楽は、どれほど切り捨てたいと願ったところで、己ですらも、決して奪うことは出来ない。

ならば、音楽を伝える人間は、何処にそれを置くのか。

純粋に聴き手として感銘を覚えた音が、頭の中でループして抜け出せなくなってしまうことがよくある。

そんな時、新しい音を求めて、私は容赦なく音を捨てにかかる。

それなのに、必死な私を嘲笑うかのように、気が付けば音は心のフォルダーに舞い戻っている。


ツアーに行けば、毎日が新しい出会いであり、ほとんどが初めてshezooを聴く人と時間を共有するとなれば、何百、何千回弾いた曲であろうと、その瞬間、昨日までのshezooは存在し得ないのだ。


ショーシャンクの空に
「心の奥底にあるもの、それは希望だ」


音楽は、希望の代弁者なのか。

確かに、そこには絶望も存在するのに。

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コメント

音楽に限らず普遍的なものは何も無く時代が変われば場所が変わればまたまったく違ったものになります。
オリオンビールが沖縄で飲むと美味しいのに東京で飲むと薄いビールって思うし(例えが悪いかも)。
そう太陽だって5年前の太陽と今の太陽と良や質的には変化しているはずだし(もっと例えが悪い)。キリスト教だってイスラム教徒にはうっとおしい教えに過ぎないし(さらに輪をかけて例えが悪い)。
うーん、パーソナルに心に響けばいいのでは?と安直に考えている私でもあります。

>Sweeperさん

結局のところ、自分が音楽と向き合うとき、80%以上が何らかの条件付きのオファーであるということが、根本にあるのでしょう。

CMしかり、劇伴しかり、そしてアレンジしかり。

以前は、その瞬間の自分の心に正直にあれと考え、音楽を紡ぎだしていた時期もあったのですが、このところ、どうしても音楽が届く先にいる人の心や耳に近づきたいと思う気持ちが勝ってしまいます。
ただそれは、あくまでも聴き手のし好への迎合とは、全く違ったものですが…。


それでも、時代や局面が変われば、在り方も考え方も、ご指摘の通りまったく違ったものになっていくのかなと思っています。


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