2009年4月 3日 (金)

メッセージ

東郷青児美術館に、館勝生の絵を見に行く。

都会のまん中に建つビルの上層階にこんな空間があるということを、なんとも不思議に感じる。


高速エレベーターを降りると、窓の外には厚い雲に覆われた空とかすむ街並みが広がっていた。

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彼は比奈一の名で写真家としても活躍していたという。
大切な友人の日記で彼の存在を知って以来、どうしても彼の作品が見たかった。


友人は、日記の中でこう綴っている。


最後の日記には

油絵の道具・ペインティングナイフの写真。

切り取られた身体という タイトル

比奈一さんの最後の表現とラストメッセージだったのでしょうか。


表現は、死なない。
彼の作品に触れて
そう、思った。


ほとばしる感情の隆起がキャンバスから飛び出し
見る者に向けて叫び続ける。

去年から今年にかけては、二次的、あるいは三次的な立場で音楽を制作をしてきた。
確かに、音楽という表現の特性を持ってすれば、BGMという存在も含めて、音楽を職業にすること、仕事としての成立はその機会の方が多いのも当然だし、コラボレーションという作業は、基本的に孤独な制作の現場では楽しいものでもある。


ずっと以前、何の束縛もなく、日々の想いをすくいあげるたり切り取ったりしながら、詩を作り、メロディーをくちずさみ、曲を書いていたことを思い出す。


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日々、音楽に囲まれて過ごせる幸せを感じながら、たまには誰も触れたことのない真っ白なキャンバスと向き合うことも必要なのかもしれない。

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2009年2月 5日 (木)

音楽の正しい答え

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「音楽に勝ち負けはあるのか」
この間の壷井さんとのライヴの後、そのことで盛り上がりました。

例えばソロの時においては、「強い(大きな音)」「早い」「長い」が勝ちパターンなんだそう。
これはあくまでも壷井さんの意見ではなくて、彼がこの世界(ってどこだよヲイヲイ)に入った当初、影響を受けた方から伝授されたとか。
へー、なるほど。

もしソロ回しだけでミュージシャンの資質を問われちゃうなら、私はダメダメだ。
「弱い(小さな音)」「もたもた」「長さはいい加減」
消えてしまいそう。

勝ち負けについてはそんなこんなで(o・ω・)ノ))


さて。
音楽に正解はあるのか?

聴く側にとっては問題にもならないはずだから、好きな音楽が全部正解です。
ロックやポップス、何でも良いです。
自己を表現するものであれば、それはそのまま正解になるはずです。


それでは、2次的な作り手は?
何を考えて作曲しているのだろう?

以前、服部隆之さんのドキュメントで、忙しい彼は音を確認することなく、サクサクと五線紙に♪を書いては写譜屋(手書きの楽譜をスコアやパート譜に書き直してくれる職業)にファックスして仕事をこなすという偉業を見た時、その環境であれだけすばらしい作品を作るということに言葉を失いました。


ここでも自分、ダメじゃん。
ひとつの仕事が来たら、自分のフィルターを通した作品がでてくるまで、何回でも演奏したり聴いたりを繰り返します。
だから、本当にフットワークが悪い。
量が増えれば増えるだけ、時間がかかってしまう。
だって、時間の経過によって感じ方は確実に違ってくる。(注釈*私はです。)
だから、音楽をひな形とかルーティンの作業にはしたくない。
依頼してくれる人たちの気持ちを考えたら、そこに沢山の思いがあって音楽の必要があった訳であり、私に作ってほしいと選択してくれたことをとても大切にせずにはいられなかったりするから。

私たちは毎日、どのフレーズがどうとか、リズムがなんタラと騒いでいるけれど、みんなにとっての音楽ってなんなのだろう。
沢山の人が耳にイヤホンをしているということは、自分だけの世界に浸りたいということに加えて、他の雑音を聴きたくないということもあるのかもしれないのかな。


音楽の正しい答え。


今を楽しくさせてくれる存在であり、背中を押してくれるスイッチであり、過去を思い起こさせてくれる存在であり、なくてはならない存在。
ある時には、決して聴きたくない存在でもあるかもしれない。

答えを問う前に、作り手は、その先にいるであろう沢山の聞き手の前にいる、もうひとつの聞き手に向かって音を伝えていくことにしましょう。

音楽を、頭で書くのではなく、心で書くことができますように。


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2009年1月20日 (火)

サクサク曲作る人にはなれない。

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とにかく〆切12時間切ったぞと理解していながら、色々な音いじっている中、ふと行き詰まった瞬間。

昨日のライヴで演奏した壷井さんの「First Greeting」。
ずーっと頭とか右足とか左肩とか、どこかでグルーヴしている。

充実したライヴの後はいつもそう。
新たな作品を作らねばいけないのに、めちゃくちゃひっかかってきて、ずっと残るのだ。

本来ならばとっても嬉しいことなのに、影響力が大きすぎて別の生まれつつあるアイディアに重しをしてくれるのだからどうしよう。これが、書くことが忙しくなると思うとライヴのブッキングを入れたくない理由だとつくづく知らされる。


あ。

以下に描く内容は、勝手なshezooの妄想です。
特に壷井さんのファンの方はてきとうに読み飛ばしてください。


「First Greeting」の設定は4/5と書かれています。
その入り口について。
3+2のリズムとそれにふさわしいとしか思えないコードがつけられている。
このグルーヴがトラデショナルな踊りのステップにあった気がする。
1小節に→123. 12

それからリズムは2小節単位で→3拍子×3回+1拍になる。
そして3小節の中に→3拍子×5回で収まる。

実は最後の3×5にトラップが仕掛けられている。
×4〜5にかけては
「面白いように皆さんドサドサ引っかかる」
らしい。
もちろん私も思いっきりトラップ踏んで心地よし。


で。
何が言いたいのかというと、楽譜をぱっと見で、誰にでも正しく演奏してもらうためには、トラップを踏まないようにグルーヴを拍で割った小節で譜面を作れば良い。

むう。これだけでもわからないですよね。

たとえば、5つのリンゴが入る箱に、3個入と2個入の袋がはいっているとします。
今度は箱3つ(全部で15個のリンゴがはいる)にリンゴを入れる時、↑のように3個と2個の袋が3つあれば簡単に分けられるけれど、たまたま3個入の袋しかなかった。
そこで3個入の袋にリンゴを詰めて、箱同士またがせて入れるみたいなことでしょうか。
なおかつ、箱1にはまたぐリンゴ2個、箱2には箱1とまたぐ1個に加え箱3とまたぐリンゴ1個が入っているところがとっさの判断を鈍らせるのです。

でも、↑には確固たる意味がありました。フレーズとかアーティキュレーションとかも踏まえ、作曲者の意図はとてもよく伝わってきたのだから、この曲の譜割はこうでしかないといたく感動したのであります。


そんな中。記憶がよみがえってきました。
今考えれば、ジャズが4拍子基本の概念によるのかなと思いつつ…。
以前、変拍子が小節をまたぐ意味を感じない、譜面がわかりづらいと言われていたことがあって、ずーっと悩んでいたけれど、自分の中のグルーヴとしては必然性があって、結局書き換えなかった経緯があります。

リズムは、ただ正確に刻むだけが良いのではないはずだし、小節線の大切さを改めて感じています。
拍子と小節は絶対に一致しなくてよい。
そんなこと、ずっと前にわかっていたつもりなのに、「First Greeting」はその美しさとともに、私のモヤモヤした心に爽やかな風を運んでくれました(わはは)。


これまでの記憶が残り、新たに何かを感じられますように。
そして今の私は音に気持ちを注ぎましょう。

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2009年1月14日 (水)

「願いに変わりはないのにそれぞれを隔てる言葉」についての考察

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前回のブログ「象のいる星」を書くにあたり、なぜか気になっている事がある。それが妙に残っていて、今も自分の中で燻っている。

たぶん、ビッグイシューとホームレスの事を調べている時に遭遇したホームレスに関わる2つの文がそれだ。


「ビッグイシューは、ホームレスの人の救済(チャリティ)ではなく、仕事を提供し自立を応援する事業です。」

「私たちは、ホームレス状態にある方たちへの法的支援を行うために、結成されたグループです。」

どちらも、ホームレスの人々の力になりたいと活動している貴重な存在であることは紛れもない事実として理解できた。

でも、何かが引っかかる。

何度も読み返してみると、前者が「応援」している事業であり、後者は「支援」している団体だということがわかった。
両者の間には、本当に違いがないのだろうか。


意味を調べてみる。

「応援」 力を貸して助けること。
「支援」 力を貸して助けること。

あれ?同じじゃないか。


別の辞書で更に調べてみる。

「応援」 他人の手助けをすること。
「支援」 他人を支え助けること。 

少し違いが出て来た。

「手助け」と「支え助ける」

大きな違いは感じられない。


類語を調べてみる。

「応援」 支援、声援、後援。
「支援」 応援、援助、後援。

何だ、お互いの言葉も含まれている。


唯一の違いを検証する。

「応援」→「声援」声をかけて元気づかせること。
「支援」→「援助」困っている人に力を貸すこと。


ここで明らかに道が分かれてきた。

運動会で仲間にするのは「応援」であり「支援」ではない。だから、声をかける。
困っている被災者にするのは、往々にして「支援」といわれており「応援」とは表現されない。でももしかすると「応援」しても良いのではないか。
限りなく同義ではあるのに、私にとって「応援」する側とされる側、「支援」する側とされる側の立場の違いが、この二つの言葉の持つ微妙なニュアンスを、居心地悪く感じていたのかもしれない。

現状は、支援する人たちが自分の立場はされる人とは別などと思っていないし、ましてや施しているなんて、これっぽっちも思っていないことはよくわかる。しかも現場の人たちがどれほど骨身を削って日々努力されているのか、我々の想像を遥かに越えるハードなものであるに違いない。

それなのに、なぜ私は違和感を感じてしまったのか。

さらにうがった見方をすれば、前出の「手助け」と「支え助ける」だって、できない相手を助けてやってる的な意味合いを感じなくもないのだ。


言葉って難しい。

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2009年1月12日 (月)

象のいる星

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ひとつの曲の中に、いったいどれだけの可能性を秘めているのか。
バッハの作品にはたくさんのおいしい素材が骨組み自体にたっぷりと溶け込んでいる。
同じアレンジをするのも、宇宙に匹敵するほど奥の深いバッハの世界観に触れながらの作業は至って楽しい。


たとえ「ひとつの素材にしても様々な料理法、たくさんの『表現の可能性』があることに驚かされる」と、食と美術の関係について書いている島袋道浩展に行った。

またその関係については、食べるのも料理するのも好きで、それは新しい作品の発想やヒントになる、という。 米を洗ってから炊くという常識を持つ日本人の彼が、そのまま炒めることで調理が始まるイタリアのリゾットをおいしく食しながら、時には常識から離れてみるのがいいことを学ぶ。


今回の展示は、美術家にとどまらない芸術家、島袋道浩の作品の中でも食に関したものが多い。

「自分で作ったタコ壺でタコを捕る」
訪れたイタリアでしばしば食卓にあがっていたタコ。タコ壺など見たこともなければ、そんな漁の方法も知らない漁師と共に海へ向かった時の映像。小舟の上でいくつもいくつもタコ壺を引き上げる、がどれも空っぽ。やっと手応えを掴み、壺の中からタコが顔を出した瞬間、見ているこちらも思わず嬉しくなって笑口元がゆるんでいた。タコは浜辺で待つギャラリーに披露された後、そっと海に帰された。

「ワタリさんのところで食べる野菜や果物で作った北斗七星」と「タマネギオリオン」
表参道にあるワタリウム美術館の近所、トラックで売りに来る八百屋の野菜が星に替わって並んでいる。普段見慣れているはずなのに、新鮮で美しい。星のごとく尊い存在にすら感じられる。

その中で、「シマブクロのフィッシュ・アンド・チップス」は静かに想いを放っていた。
イギリスの定番料理、海と大地との出会いを自分自身で表現したいと思い、海の底で転がるように浮かぶぼんやりとしたじゃがいもの輪郭と、それをつついたりしながら周りで戯れる魚を映像にしたという。

何気ない風景やふだん見慣れたものが新鮮に映り、生きていることの喜びが伝わってくる。


3階から4階に上がる外階段からは、街の喧噪をBGMとして隣のビル屋上に展示されているビルボード写真「象のいる星」を楽しめる。
ここには椅子が置いてあり、小さな張り紙があった。
『花のお茶 300円』
そこに書いてある番号に電話をかけてみる。しばらくすると、温かいジャスミンティーが運ばれて来た。耐熱性グラスの中でジャスミンの花が揺れていた。
周りに高い建物がないせいか、遠くまでよく見える。西日に輝く表参道の街を、こんな形で上から見る事ができるとは夢にも思わなかった。


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そうか、ここは地球なんだ。 


生きるとは、どういうことなのか。
展示物がむずかしい問題を投げ掛けてきた訳ではない。
自分の中で、そんな疑問がごく自然に沸き上がってきた。


今、雨風をしのげる家に住みごはんを食べる、そんな生きるために最低限必要なことすらも叶わない人たちが、かつて裕福なはずだった国、日本においても急激に増えている。 天災、人災に関わらず、私たちの住む地球は、いつからこんなにも生きることに厳しい星になってしまったのか。
水と緑に溢れ、太陽の光が降り注ぎ、生命の象徴のような存在だったはずの星が悲鳴をあげている。声高にエコを叫ばなくとも、この星が病んでいることくらい百も承知だ。


自分は何ができるのか。
エコソングを作って歌ってみる?→→→→→→→→→→→→→→→→→いや、それは違う。

相も変わらず非力な自分と、またもや向き合うはめになった。

「運が良ければ買えるアーティストブック」
ホームレスに仕事を提供し自立を応援するために作られた雑誌、ビッグイシューとのコラボレーションとして、ワタリウム美術館近辺でビッグイシューを売るホームレスに「象のいる星はありますか?」、または前出の八百屋さんに「トマトと象はありますか?」とささやくと、ゴソゴソと本を出してくれて購入できるというもの。運のよい私は、日曜日限定で美術館前に店を開く石ちゃんから入手することができた。


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ナマコを最初に食べた人が「これは食べられるのではないか?」と思った自由な発想力、口に入れてみる勇気と実行力こそが新しい「作品」を生むには必要である、とも彼は書いている。

新しいという言葉に「以前と違う」という意味もあるらしい。
初めての新しさだけでなく新旧が入り交じってもいい、現状を打破するためには、こうであるはずという思い込みから一歩足を踏み出した発想、考え方の柔軟な展開が求められているのかもしれない。


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2009年1月 1日 (木)

すてきな一年になりますように

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LIVE
壷井彰久(vn)♪shezoo(p)


1月17日(土) @in F (インエフ)
start  8:00pm
charge ¥2,800

練馬区東大泉3-4-19津田ビル3F
03-3925-6967
西武池袋線「大泉学園」北口下車5分

同時にいくつもの音を出せる楽器が慣れっこになっている人間にとって、基本が単旋律という世界は魅力です。


ま、壷井さんは多旋律よりも深い構造で成り立っているに違いないので、もっと魅力的ですけれど。

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2008年12月30日 (火)

時を刻む音

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気が付けば、今年もあと1日。


とにかく作曲した一年だった。
その中で日の目を見たもの、倉庫に格納されたもの、人からの反応や評価はともかくとして、どれも真摯に自分と向き合って生み出す事ができたと感じている。


そもそも音楽の着想はどこから生まれるのか。ある程度、テンプレートを使ったり、経験から得た記憶は辿れたとしても、それは音楽の根幹をなす決定的な要素には成り得ない。


ノイズや即興といった手法ではなく、あくまでもメロディーを待った「曲」を前提とすれば、本来は降ってくるという表現がふさわしいのかもしれない。

スティービー・ワンダーやフレディー・マーキュリーのような天才の音楽を聴くたびに、いったいどれだけの種が、この人たちの上に舞い降りたのか感じずにはいられない。その種が花を咲かせ実となり、私たちの耳に届けられる。

私の所にも、アートや文章、風景、そして生きざま、たくさんのものが種を運んで来てくれる。それをしばしば受け取り損じてしまうことがあるから、困ってしまうのだ。
そんな時は、そこに潜む何かを必死で探り、悩んでみる。自分と向き合うことで小さな糸口を見つけられた時、そしてその先にある一筋の光を掴めたら、自分というフィルターから生み出された小さな実が旅立って行く。


来年のライブは、1月17日土曜日の壺井さんとのデュオ@インエフから始まる。


どんな1年になるのだろう。
とにかく、無事新しい年を迎えることが出来る事、すべての人と、すべてのものに感謝。


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2008年12月 9日 (火)

ピアノのために

ピアノのために
私は自分がわからない。
 
ミュージシャンとして、どうあるべきなのか。
作曲家として、どうあるべきなのか。
そして、ピアニストとしては、どうあるべきなのか。


ひとつだけ、わかっていること。
今はピアノを弾いている時が無性に楽しい。
こんな感覚を味わったことは、未だかつてなかった。


音楽は好き。
音楽を作り出すことも好き。
でも、演奏はずっと嫌いでした。
既存の曲はへたくそだし、自分自身の演奏でも思うような音を選んで弾けない。

ドビュッシーのPour le Piano「ピアノのために」
なんと指に優しい曲でしょう。
全く意識していなかったけれど、ピアノプレイのルーツは実はここだったのかなとか。


ピアノのため。


そうそこから行きついたのは
ベートーベンのピアノソナタ
心が落ち着くから何となく弾いてしまう。


そしてもうひとつは
バルトークのピアノ作品
ミクロコスモスも、大好きだったバガテルも書き譜とは思えないほど自然に弾ける。

だからね。
人生ってこんなものなんだ。

こんなにピアノを弾きたいと魂が感じているにもかかわらず
この時間をくくりのあるアレンジと作曲に費やさねばならないということ。


今の瞬間を大切に反芻しなかった自分に
あまりにも痛いお仕置きだと感じている。

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2008年12月 4日 (木)

トンネルの向こう側

Heart

今年最後のライヴ終了。

考えてみれば、昨年から急にライヴの数が増えた。
加えてソロライヴがずいぶん多かった。
昨年リリースした「nature circle」がソロアルバムだったから、当然の流れとも言えるけれど。


日々の仕事として新たな作品は作っているものの、ことソロについてはやたらと「nature circle」が付いて廻った。(セールスも積極的に協力せねばならないしヽ(´▽`)/)夏に録音予定のソロアルバムが先送りになった事もあって、結果なかなか新曲を聴いてもらう機会を逸していた。
自分の中で新曲のハードルがじりじりと上がっている状況に、このところ少々当惑しジレンマを感じていたのも事実。

とはいえ、やっとという感じで巡って来た今日のライヴ。

先日、大好きなピアニスト黒田京子さんからのメールに
「譜面に書かれたものを演奏することと、まったく何も決めずに即興演奏することが、自分の中では等価になったように思っています。以前から作曲と即興演奏のことをずっと考えていましたが、やっとそのあたりのことが溶けた感じがしています。
なーんてことも、多分shezooちゃんが書き送ってきてくれたことと重なるところがあるような気がしています。」
という言葉があった。

自分が書いた音符を読み取り、演奏に魂を注いでくれるミュージシャンに楽譜を提供したり、たくさんの決めごとの中で作品を作ることが多い自分の環境に於いては、深く考えて選んだ音を「書き置く」という行為も大切な訳であり、作曲と即興が等価というにはほど遠い。

でも、私の中で何かが確実に変わって来ている。
それが何を意味するのかは、来年以降の自分を見つめて行こう。


2008年も残り1ヶ月。
作曲とアレンジの宿題がどっちゃり溜まっている。

わはははは…


+works
「石油コンビナート#1」
「石油コンビナート#2」
「Tapering Cloud(涙型の雨)」


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2008年12月 3日 (水)

脱出ゲームの解き方

200811301642000

横浜トリエンナーレ
http://yokohamatriennale.jp/

→赤レンガ倉庫→新港ピア

表現する自由が与えられている時代に生きている事に感謝。

そういえば、外国人が全国8都道府県で落書き行脚していたという記事を思い出した。

彼らの作品の映像のひとつを見た時、とても惹かれるものがあった。
トリエンナーレの作品をすべて見た訳ではない無責任な中で、何も感じないものも多くあった。

帰宅後、NHKのニュースで「夜景」が人気ということが報じられていた。
工場コンビナート関連もクローズアップされていたこともあり、その映像の美しさにしばし痺れる。
ということで、夜景検定なるものがあるという。


クラシックスでのライヴ、予定を覆す何かの要素の方が膨らんでいて困っている。
有機物、無機物、炎、浮かぶ光。
自分の中で蠢くいくつかの同位体原子の曲を作ってみたいと思ったりする。

*shezooピアノソロライブ*
「eyes and ears vol.2」(新たな映像と甦る記憶への対話)

絵画と音楽のコラボレーション「nature circle」に続く新しい映像との出会いが、shezooの世界をさらに広げる一夜。

日時 12月4日(木)19時開場 19時半開演
料金  2,700円(前日までにご予約のかた)
    3,000円(当日料金)
場所 公園通りクラシックス
   渋谷区宇多川町19−5東京山手教会B1
   電話03-3464-2701
  (月曜定休、営業時間17時から22時)
予約 電話予約は公園通りクラシックスまで、営業時間内にお願いします。
   メール予約はお名前、人数、電話番号を明記の上、info@superboy.co.jpまでお申し込みください。確認のメールを返信いたします。
なお入場は、開場時にご来場頂いた順番でご案内致します。

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2008年11月 4日 (火)

見えるものと見えないもののあいだ

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ネットで原美術館をチェックしていたら、米田知子展「終わりは始まり」が開催されているとあった。
彼女はロンドンを拠点に活動している写真家で、近年めざましい活躍をしているという。
不勉強な私は、彼女の名前をこの写真展で初めて知った。
「終わりは始まり」とは、なんと素敵な響きだろう。


http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html



焼け焦げた壁紙

夜明けの山並みに浮かぶ煙に包まれた工場

部屋におかれたソファ



一見するとさりげない風景や、生活のワンシーンを切り取った情景のような写真が並ぶ。
私はこういう写真が好きだ。

ひとつひとつの作品を、丁寧に見て行こう。
パンフレットに目を落とし、タイトルを見た瞬間、頭を殴られたような気がした。

違う、これはただの情景写真などではない。


その理由は、彼女が付けたタイトルにあった。

焼け焦げた壁紙の下には、暖房の風向がある「Heat」
 あの寒い日々、その風は部屋を暖め、人に温もりを与えたのだろう。その積み重ねとして、風は壁紙をも焦がしたのだ。

山並みに編み込みまれた、これこそ関東軍が爆弾を仕掛けた南満州鉄道の「線路」
 満州事変勃発の場となった瀋陽、その地を臨む。

この部屋で最後の瞬間を生きた二人と。
 「アドルフとエヴァのソファ」



 

最も強く彼女の感性に魅きつけられた作品、それが今日の日記の題名にした作品集「見えるものと見えないもののあいだ」

これは眼鏡をかけていた実在の人物たちが、彼らにまつわる書面や楽譜がぼやけている中、眼鏡のレンズの先だけはくっきり見えるというもの。

「マーラーの眼鏡」
 交響曲第10番(未完成)の歌詞が五線紙に書かれている。
 レンズの先には「Leb'Wohl(永遠にさようなら)」文字がくっきりと読み取れる。

「マハトマ・ガンジーの眼鏡」
 『沈黙の日』の最後のノートを見る。

「トロツキーの眼鏡」
 未遂に終わった暗殺計画の際に燃やされた辞書を見る

「谷崎潤一郎の眼鏡」
 松子夫人への手紙を見る。


現代に於いて、歴史的な出来事を画像で伝えるとするならば、できる限り即座に現場の悲惨さを伝える報道写真が思い浮かぶ。

彼女の手法は、それとはまったく異なる。
あまりにも日常的な情景がそのタイトルと結び付いた時、それは一瞬にして人間の犯した行為を鋭く抉り取り、見る者にその事実を激しく伝える。
これは、しっかりとした主張を持った事実の裏付けをアートとした写真なのだ。
米田知子との出会いは、ドキュメントの新たな在り方を知った瞬間だった。


「見えないものを見る」視線といえるものこそ、彼女の特徴であるという。
そして彼女自身は「記憶と時間」をテーマにしているという。



米田知子を検索して行くうち、薄い緑のカーテンの揺れる窓が広がるホールの写真に出会った。
「教室」
 遺体仮安置所をへて、震災資料室として使われていた/芦屋

「震災から10年」をテーマに芦屋市内を撮影した「シーン」のシリーズがあると知った。
この作品は、現在開催されている横浜トリエンナーレの2005年に展示されたという。

トリエンナーレ、今年は絶対に行こうと思っていた。
2005年。
行けていない。

こんなに悔やむことがある。
だから、ライヴも展示も、怠けず、今をチェックしていなければいけないということなんだ。

http://www.shugoarts.com/jp/yoneda.html
http://em.m-out.com/ec/html/category/001/002/172/category172_0.html
http://artshore.exblog.jp/2113492
http://www.yaf.or.jp/yma/exhibition/2007/collection/1/exhibition3.html
http://www.eu-japanfest.org/program/13/japan/in_between09.html
http://www.fujitv.co.jp/events/art-net/go/680.html






ケンウッド トワイライトライヴ
スクエア・丸の内で不定期に月2、3回開催される平日の夕方19:00〜20:00のライブイベントです。

『ソロピアノwithアート。shezooライブ』
日時:     11月7日(金) 19:00〜20:00(開場18:45)
出演:     shezoo(ピアノ)
内容:     映画音楽、CM、舞台などの音楽の制作を手がけ、卓越したピアノ演奏家として活躍するshezoo(シズ)のソロライブです。CDアルバム「ネイチャー・サークル」でコラボレートした霧島留美子の絵画を大画面に映しながらの演奏。深まる秋に相応しい音楽とアートをお楽しみ下さい。
予約:     TEL:03-3213-8775 (ケンウッド スクエア・丸の内まで) 
http://www.kenwood.co.jp/j/square/event/twilight.html

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2008年10月28日 (火)

間の極意

Nec_0159少し前のこと。

夜中にザッピングしていたら、「ラ・フォル・ジュルネ」のルポ的番組をやっていた。
本当は北京オリンピックの番組を探していたはずなのに、気が付いたらこっちを見ていた。
私はそれほど熱心に音楽番組をチェックする方ではない。どちらかというと、作曲をしている時であればなおのこと、イメージや感覚が拡散したり何かに似通ってしまうことを懸念して、かなり選んで見るようにしている。
だからその時はあまり意識しなかったけれど、こんな風に無意識のうち音楽番組に引きずり込まれる事はとてもめずらしい。

「ラ・フォル・ジュルネ」は、「一流のミュージシャンを低料金で提供することによって、明日のクラシックを支える新しい聴衆を育てたい」という芸術監督の願いから、多くのスポンサーの協力のもとフランスのナントで毎年行われている音楽のイベント。メイン会場を中心に大小様々なホールで、世界的なミュージャン招聘しながらも比較的安価で気軽に聴けるコンサートが町をあげて繰り広げられる。
この成功を受けて、世界各地で、その国や都市ならではの「ラ・フォル・ジュルネ」が展開されている。

この時は、そのひとつとして東京で行われたコンサートの様子が流れていた。ウェーベルンがアレンジしたシューベルトのドイツ舞曲。ずいぶん昔に聴いたような気もするが、記憶が定かでない。
シューベルトのメロディーの美しさは語る迄もない。それにも増して、ウェーベルンがこんなにやさしい世界を持っていることに驚いた。
でもそれは、私を巻き込んだ真の理由ではなかったと思う。

小さな曲と曲の間に訪れるに音のない時間、そこに演奏者と聴く側が共に感じたであろう何かが生まれていた。息使い、いや脈拍さえも存在していた。その時の無音の時間は、私にとってあまりに心地よいものであった。



通常、映画に音楽を付ける場合、すでにストーリーは存在している。私が関わった作品は、少なくともそうだった。シナリオを読み、コンテやラッシュを見ては、監督の意向を考慮し、完成形を予想しながら音楽を作っていく。

でもそこには台詞やシーンの説明はあっても、「間」についてはどこを探しても書かれていない。
もちろん音楽満載を望む監督がいることも事実だから、それがすべてとは言えないけれど。

ハリウッド映画で育った私は、長い間日本映画の良さを理解することが難しかった。芝居であってもカメラワークであっても、無の存在、無からの表現方法で受け手に伝える手法を感じるためには、時間が必要だった。


「スカイ・クロラ」が、アニメにおいては難しいであろう効果音のみのサイレントの部分を随所にちりばめていて、その美しさに大変感動し、驚いた。

ひとつひとつの事柄が、間への考察を誘う。

そんな中、単館系の邦画を浴びるほど見た。

音楽。本当に少ない。
音に溢れて生まれ育ったはずの世代からの発信が、これほどまで研ぎすまされているんだ。

無が語るもの。

今年の春、篠原哲雄監督からワークショップから生まれた短篇「悪意」のオファーをもらった。

作品の映像は、すでにでき上がっていて、その映像を元に最初のキャッチボールの後、篠原監督からはどこに音楽を入れたらいいと思うか?という質問をされた。
当時、女性アカペラグループ、アウラの為に「アヴェマリア」のアレンジをしている最中だったので、悪意の表現と相まって何とも混沌とした時間を費やして。

そして自分で入れるならここ、という2カ所を見つけた。

結果がどうなったか、読んでくださった方はぜひご自分で確かめてくださいまし。



東京では盛況の中、既に上映が終わっています。
関西の方はラッキーですのでぜひ。
http://www.movie-plus1.com/shinohara.htm


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2008年10月24日 (金)

ほんとうの気持ち

Nec_0114 ケンウッドショウルームで行われるライブの打ち合せで有楽町へ。

この日はびっくりするほど道がスムーズ。お天気もいいし、晴れやかな気持ちで高速を降りると、桜田門付近が妙に込みあって雑然としていて、法務省の前には沢山の報道陣が車を待っている様子で車道に出ている。何だろう。ニュースをチェック。そうか、朝青龍が裁判の証人にくるんだ。

実は結構裁判の傍聴とかが好きだったりする。難しい司法や法曹界のことは一切わからないけれど、阿曽山大噴火の「被告人、前へ」や「気分はもう、裁判長」(北尾トロ著)などを読んだことがきっかけだったかもしれない。
喧嘩ごしで罵りあうケースもあれば、最初から原告と被告が互いに打合せていたような穏やかな裁判もある。何だかドラマを見ているよう。いったい裁判て何なのか(σ゜д゜)σ?

最近はなかなか時間がとれずにいるけれど、よく傍聴に行っていた頃は、人の数だけそれぞれの人生があるのだということをつくづく思い知らされた。
人は皆、価値観も考え方も違う。自分と同じではない人が存在する以上、そして己の権利を主張しようとすれば、そこには諍いが生じる。裁判という制度は、それを第三者に判断してもらう事で中立的な答えを得ようとすることなのか?

それがたとえ正当な理由であったとしても、下された結果が関わった人間にとって必ずしも納得のいく内容であるとは限らない。結局は人間のする事に変わりはない。敗者に不満は残る。
だったらいっそのこと、判例を全部入力して、コンピューターに委ねた方がいいんじゃないですか?
これはいまどきの子、アシスタントの意見。
まさか大岡越前の裁量を今日に求めるわけではないけれど、たとえ現実味はなくとも、それもひとつの考え方なのか。


そんな中、来年からは刑事裁判において裁判員制度が実施されるという。私が見聞きしてきたのは、あくまでも民事だから、当事者は真剣そのものであっても、傍から見ればドタバタ劇のようなケースも多かった。でも刑事となれば話は別だ。人の生死を左右する事もあるだろう。自分がその立場にあった時、果たして正しい判断ができるのか?迷う心の中、身近な人たちに秘密の保守が本当にできるのか?


ぐるりのことを見ながら思った事>>>

裁判の審議に関する推移を客観的に判断するためには、それなりの時間と経験が必要であるということ。

そして。
自分の気持ちこそが、自分自身ですらわかっているのかどうか、わからないということ。



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2008年10月23日 (木)

ブログを休んだ暁の初っぱなは

Nec_0112_3

わたしは氷川きよしに似てるという事実を受け止めた瞬間。

どれだけ言われて来た事か。

「きよしとこの夜」を見たら、塚本高史が出ていました。

二人がそれぞれの顔の話しをし始めたぞ。

塚本はイケメンです。
間違いない。


氷川は?

立ち方、話し方、何だか河童っぽいではないか!

ファンから見たら可愛いのかもしれないけど、
いわゆるいい男ではない分、愛されるポイントが多い気がする。




やっぱり似てる。
困ったな。

誕生日も一緒だし。




よし。

ブログ復帰。
おK。




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2008年9月16日 (火)

eyes and ears

eyes and <br />
 ears


shezooソロ・ピアノ コンサート
- eyes and ears -

日  時 9月19日(金)
1回目 13:30〜14:10
2回目 15:00〜15:40
場  所 築地新店5階 space 会
出  演 shezoo
定  員 各回40名様
チケット代 1,000円(喫茶券付)
お問い合わせ 03-3542-2336(築地新店・茶の実倶楽部)
http://www.uogashi-meicha.co.jp/shop_02.html

・演奏の前 または後に お茶を一服どうぞ。 


目と耳がインスパイアされた瞬間を切り取り、自ら撮影した写真とともに書き下ろした曲、そして霧島留美子の絵画とのコラボレーション「nature circle」。これら要素を織り混ぜながら、それぞれのステージで異なる2つの世界を描いてみたいと思います。


また茶の実倶楽部では、とてもおいしい「うおがし銘茶」のお茶を出してくださるのですが、さらにお茶空間で、おいしいお茶の入れ方も伝授してくれます。

おだやかに時の流れる空間で、午後のひとときを。


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2008年9月 9日 (火)

夜空に月を愛でる

夜空に月を愛でる
あたりまえのことが、これほど懐かしく感じられるなんて。
誰が想像しただろう。

夕焼けで、地平線がほんのりと赤く染まる時。
空には、ひとちぎりの雲もない。

見慣れていた風景に、「ありがとう」と思う自分が気恥ずかしい。

今日の月は月齢9。
右側が映る半月。

決して立派な月ではない。

でも私にはダイアモンドに見えたんだ。

自分の目に何を焼き付けたのか。

映像を沸き立たせる音楽とは。

耳と目が感じた、その先にあるもの。


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ひとつ年下の私へ

ひとつ年下の私へ
存在自体を日常の仕事で忘れてしまうことが多かった近年には珍しく、今年の誕生日はたくさんのメッセージとプレゼントが届く。

その多くに気付いたのは、日付の変わってからのこと。
気に掛けてくださった方々に心から感謝。


今年はこの日限定のスケジュールが入っていなかったこともあり、夕方から仕事を投げて車に乗り込んだ。


しばしば霧に霞むという理由から「霧が浜」と名付けられ、いつしか「君ヶ浜」と名を変えた辺りに向かう。


この日もその名にふさわしく、海に、港に、霞が漂っていた。

ふと霧が晴れた瞬間、巨大なテトラポットが目の前に並ぶ。
気が付けば、防波堤にもテトラポットの壁が連なっている。


この地の路面電車は、何年か前、廃線寸前まで追い込まれながら名産品が話題となり、九死に一生を得たんだっけ。

そして今度は、自治体が経営難から、市民病院の存続を断念する決定を下したとも聞いた。

そんなことが頭をよぎり、すぐに消えていった。

どのくらい時間が経ったのだろう。
私は、ただぼうっと海を見ていた。

そんな誕生日。

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2008年9月 5日 (金)

誉めるのススメ

誉めるのススメ

「自分で自分を誉めてあげたい」

このフレーズに初めてインパクトを覚えたのはマラソンの有森裕子のコメントでした。
あの時のその言葉はとても新鮮で、彼女の謙虚さと頑張りがうまくマッチして、心を打ったものです。



それからこのフレーズ発する人が急激に増えた気がします。


もちろんそれが自分自身へのエールとして、応援歌の様に反芻する分には、むしろ良い処方と考えたりするわけですが。



でもひとたび、その発信先が外へ向かう時には、結構ぎりぎりの表現なのかもしれません。

余裕があったりしたら果てしなくイヤミに聞こえるし、充分に頑張っていないと世間が判断した場合には自分を甘やかしているだけと捉えられる。





そこで福田総理の辞任表明について。



きっと余裕はなくとも頑張っていたのだろうし、イヤミはあったとしても甘えはなかったのでしょう。

だがしかし。

一個人であれば、あっそうで終わってしまうあのフレーズを聞いた時、それが一国の首相の退陣会見の場に於けるコメントであったというのは、あっぱれヽ(´▽`)/ でありました。




ドイツにいた時、謝罪の意を発したら、内容に関わらず自分の非になるから「ごめんなさい」の一言は決して言うなといわれていました。




自民党の両院議員総会での福田氏の態度は、国民に対するそれよりは、はるかに真摯に感じられたけれど、「ごめんなさい」を言わないという点に於いては、見事にツボを押さえていて、さらにあっぱれでありました。

http://www.jimin.jp/jimin/daily/08_09/03/200903a.shtml






彼にとっての「総理大臣」て何だったんだろう。

地位はあっても力は無いということ?



総理になってから、幾度となくインタビューや対談を聞いたけど、この人って本当に生まれつきの総理だったんじゃないのかってくらい役にはまっていた。
あれほど一国の首相が上から高飛車な発言できるなんて、近代国家とは思えない、むしろギャグみたいで不思議だった。






「あなたと違うから」


これはもう極上です。


その個性的な閃きを、他に生かす事があったらどうなっていたのでしょうとか考えてしまいます。

必要以上に謙虚になりたくないとわかっていても、なかなか自分を誉める勇気はない。

そこでひとつ学んだ事。


凹んだ時には、ぜひ福田さんを見習って、正正堂堂と自分を誉めてみよう。




別の自分が見えてくるかもしれない。

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2008年9月 1日 (月)

語る指先

語る指先
高校に入学した年の夏、私はミュンヘンの音楽大学を受験し直した。
ドイツで学ぶ気持ちがあるのならば、1日も早い方がいいとローズル・シュミット教授が勧めてくれたからだ。


最初の1年、ピアノのレッスンといえばバルトークのミクロコスモスとバッハの平均律しか弾かせてもらえなかった。
譜読みが難しい上に、それを全部暗譜しろという。
今となれば、その意図は嫌というほど理解できるものの、当時の私には拷問に他ならない。


ただでさえ憂鬱なレッスンに、拍車をかける出来事があった。


彼女は午前中でレッスンを終わらせる方針らしく、私のレッスンは朝7時45分からだった。
夢気分でうつらうつらしていた朝、電話のベルに起こされると「Shiiii-zuuuuuuu〜&\xAD堯腆亞─Α\xA6#!!!!!!」
ものすごい怒濤の叫びが受話器の向こうから押し寄せて来た。


しまった、今日はピアノの日だ!
髪は寝起きのまま、とりあえず着替え、楽譜を手に必死に走った。

ミュンヘン音大は、かつてヒットラーが指令本部に使っていた大理石の建物で、中央に大階段、2階3階は回廊になっている。
転がる様に走り込んだ私を待っていたのは、入口からは対面に位置する3階の部屋の前に仁王立ちになっている彼女の姿と学校中に響き渡る彼女の叫び声だった。

天上が高い建物ゆえに、できればエレベーターを使いたい。またはショートカットの中央階段で上がりたい。
でも、彼女の手前それもできずに、ゼイゼイいいながら3階まで一挙に階段を駆け上がる。

もうあの日は、何をどう弾いたのか全く覚えていない。レッスン前までの一連の出来事だけが、鮮明に脳裏に焼き付いている。


そんな彼女は、本科の終了を待たずに持病の心臓疾患で亡くなった。その事実をわかっていた上で、彼女は早い渡独を促してくれたのかもしれない。


「指点字」というものをご存知だろうか。
ろう盲者であるバリアフリー研究者の福島智さんのお母様が発明したコミュニケーションの方法である。

彼の目と耳が使えなくなってから、普段はお母様が点字機を使って説明していた。
ある時、点字機のない台所でとっさに質問された彼女は、息子の指に自分の指で点字を打ってみた所、理解できたことから広く使われるようになったのだという。

ろう盲者の場合、コミュニケーションをとる手段が極めて限られている。
この「指点字」ならば、紙の無機質な感触と違って、人の温もりさえ感じられる大変優れた手段に違いない。

福島さんの文章『バリアフリー「酸欠の心」に風送ろう』に
『コミュニケーションは「心の酸素」』
であり
『コミュニケーションが不足 すれば、心は「窒息する」』
とある。
http://www.bfp.rcast.u-tokyo.ac.jp/fukusima/2001c01.htm

視覚も聴覚も失った18歳の時、コミュニケーションの断絶を体験し、再び取り戻した彼が確信したのは
『本当につらいのは「見えない、聞こえない」ことではなく、他者との心の交流が消えること』

福島さんが自分自身の置かれた境遇を「人生の中で何かの意味があるのだと思う込むようにした。生きているだけで人生の90%は成功したようなものだから。」と言い放つことができるのも、そんな経緯があってのことなのかと感じる。


たかが指先、されど目にも耳にも匹敵する大きな可能性があったのか。

「シズ、あなたはピアノを弾いている。それでは人には伝わらない、音楽は語るものだから。ピアノという楽器で伝えたいのならば、指の先で鍵盤に語りなさい。」
ローズルはいつもそう言っていた。

「指点字」、そんなことを思い出させてくれた。

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2008年8月31日 (日)

音も光もない世界で

音も光もない世界で


福島智

ろう盲者。東京大学先端科学技術研究センターバリアフー部門准教授。


その人が書く文章は、力強く飾らない言葉で、容易に読むものの魂をその世界に引き込んでいく。


以前、NHK「ようこそ先輩」で小学生の後輩に対して授業をする彼を見たことがある。

9才の時に光を失う直前、薄れていく視界の中で、表しようのないほどの恐怖と戦いながら、彼は未来の自分を見つめていたという。
もう、自分の顔を見る事もできなくなる。

15才の時には音も失った。


給食のとき、一言も会話を交わさず食べるよう彼は子供たちに伝えた。
たったそれだけのことなのに、教室はいたたまれない空気に包まれた。

けんかをしたり、いじめられたり、邪魔をされたり、他人とコミュニケーションを交わさねばならない社会で生きていく上には、必ずしも楽しいことばかりではない。
そんなことは充分わかっているはずのに、身近な人間、家族に対してすらも容易に傷つけ、自らも傷つく。
そして、簡単に「死にたい」という言葉を口にする。

カタカタという食器の音だけが聞こえてくる時間、子供たちは何を感じ、何を思っていたのだろう。


彼の書いた「光、音、言葉」という文章がある。
http://www.bfp.rcast.u-tokyo.ac.jp/fukusima/2001c02.htm#data

読むたび、その文の美しさに我を忘れてしまう。
かつて見た情景を、聴いた音楽を、彼は閉ざされた目と耳の中で風化させることなく、日々大切に育んでいた。
開きっぱなしの目と耳を持つ者は、見えること、聞こえることが当たり前となり、見ようとする、聞こうとすることがいつしか億劫になってしまった。

彼は
『「音」には色彩があり、きらめきがある。そして、常に「時間」とともに音は流れる。「光」が一瞬の認識につながる感覚だとすれば、「音」は生きた感情と共存する感覚なのかもしれない。』
とした上で、文章の最後にこう綴っている。
『「光」が認識につながり、「音」が感情につながるとすれば、「言葉」は魂と結びつく働きをするのだと思う。私が幽閉された「暗黒の真空」から私を解放してくれたものが「言葉」であり、私の魂に命を吹き込んでくれたものも「言葉」だった。』

まったく光の入らない空間を全盲のアテンダントの誘導で歩くという体験型のイベント「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を経験したことがある。

私は、音に色彩やきらめきを与えることができているのだろうか。

音を生きた感情につなげていられるのか。

音も光もある世界に生きる者として、自問自答を続けていかなければいけない。

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2008年8月30日 (土)

理屈の海を泳ごう

理屈の海を泳ごう
毎年のように、夏になると海に行きたくなっていたのは、遠い昔のこと。いつからそんな想いは消滅してしまったのだろう。
でも今年のようなハンパでない猛暑は、久しぶりに遠い記憶を甦らせてくれた。

最近、もしかしたら自分はある種のオタクかもしれないと思い始めている。

オタクの定義とは。
Yahoo辞書にはこうある。
『ある事に過度に熱中していること。また、熱中している人。
◆「オタク」と書くことが多い。1980年代半ばから使われ始めた言葉か。初めは仲間内で相手に対して「おたく」と呼びかけていたところからという。』


何かに過度に熱中している人なんて、昔からわんさかいたはずだけれど、以前はそこに特別なカテゴライズなど存在しなかったのではないか。

甲子園のスタンド360度を埋め日本各地の試合へせっせと足を運ぶタイガースファン、ヨン様を慕う想いが募るあまりハングルを学び日夜ビデオで涙する奥さま方、あんなに熱狂していても、誰も彼らをオタクとは呼ばない。

前向きな姿勢と純粋な気持ち、健全な心がある以上は決してオタクにはなれないのだ。

その資格を得るためには、どこか痛くて病んでいなければならない。

そもそものオタクとは、斜にものを見る彼らが自分たち自身に貼ったレッテルであったらしいし。

「タブーの下には、エネルギーが吹き溜まる。」
ミック板谷さんはそう言っていた。

ある時、「個」よりも「群」を美徳としてきた日本人社会に、個性とかアイデンティティーの爆弾を投下したのだから、タブーの下で燻っていたオタクのパワーが常識の壁を一気に決壊し、今や多種多様のナカーマを輩出する勢力に至ったのは当然のことかもしれない。

そして自分のこと。
当てはまる点が、年を重ねるごとに増えている。


小学生の私は、「原爆の子」に涙し「メッサーシュミット写真集」に胸踊る矛盾だらけの子供だった。


今の私にとっては、貯水タンクもウミウシも石油コンビナートも、こだわるすべてが支えではあるけれど。


いったい自分とは何なのか。

そんな私はこの夏、哲学書を読みまくったのであります。

幸福について
パンセ
方法序説


哲学は何の役に立つのか?

自分の存在や考え方に対する理由付けとして生み出されたものであることは理解できた。


でもね、理由付けとか裏付けといってしまえば美しい正論だけれど、それって見方を変えれば理屈対理屈のこね合戦にもなり得る。

確かに自分探しへの投石にはなったとしても、結論が出るはずもない。

自問自答しながら、それでもいいじゃない、と思い始めた。
こんがらがった理屈の渦に身を委ねることが、今の自分の泳ぎ方なのかもしれない。

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2008年8月11日 (月)

命をおもう

命を思う

「命の長さは、どうやら決まっている。」
この映像をくれた写真家、前田博史さんからもらった言葉。

「自分自身では、その長さは変えられなくとも、幅はいかようにも変えられる。」
後日、聞いた誰かの言葉。





かつてTV番組「ワーズワース」で聴いた「シャリオン」の歌声は、ずっと私を魅了していました。
その歌手こそが河井英里。

後年、河井さん作詩と歌唱、shezoo作曲のプロジェクトがあったとき、それはそれは頑張っちゃったものの、残念ながら実現はしなかった。だから、昨年アウラのアレンジを担当されるということを聞き、同じフィールドに立てることは、本当に嬉しい出来事でした。

彼女がアレンジした「ロンドンデリーの歌」を初めて聴いたのは、スタジオだったでしょうか。
脳髄なのか心底なのか、静かに、でも確かに訴えてくる力は、私たちには見えていないものを聴かせてくれている、そう鮮明に感じました。



春頃、パスカルの研究者である田辺保のNHKアーカイヴを見ました。

パスカルの著書、パンセの教えとして、「人間は考える葦である。」という言葉があります。
その意味として「人間は自然の中でも一番弱い存在である。それは考える葦である。」私は、このよくわからない説を鵜呑みにしていました。

田辺氏の説はこうです。「人間は葦のように弱い存在である。しかし考える事が出来る。人間が他の動物と大きく異なる点として、自分の状況を把握する、死する自分の姿を理解する事ができるということ。そして、それがすなわち考えるということなのだ。」










8月4日、河井英里永眠

合掌

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2008年8月 9日 (土)

涙型の雨

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灰色の空。


こんなに暑いのに、相変わらず曇りだ。
晴れていたって、暑いことに代りはないけれど、あのどんよりとした雲を見ていると、気持ちまで重く垂れ下がってくるから不思議。


オリンピックの名のもと、昨日中国では降雨ロケット弾が天に向かって放たれた。ロケット自身が自然界に及ぼす弊害があるという情報は聞こえてこないものの、どう見ても病んでいるとしか思えない空に対して人間が自分の都合で企てた作戦は、その指揮者曰く「神様のおかげ」で成功した。


頻発する地震による津波や天災の猛威の前に、人間があまりにも無力であることは百も承知の上、あたかも挑戦的な態度で自然の働きに戦いを挑む行為は、何を意味するのか。


各地で報告される集中豪雨による河川の氾濫に、内水は外海へ辿り着けず、行き場を失い、地上を彷徨っている。被害をより拡大している原因に、川底までにも及ぶ過剰な河川工事があるという事。これはもう、人災と言わざるを得ないのではないか。

豪雨、雷、突風を引き起こすものが、積乱雲が涙型に伸びた「テーパリング・クラウド」と呼ばれる雲だという。その尖った先から落ちる雨が、諍いのない、平和な世界を声高に叫ぶ地球に落とされた大量殺戮兵器のごとく、たくさんの命を奪っていく。

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2008年8月 4日 (月)

鳥のカタログ

うちの近所に生息する鳥は、とにかく歌がうまい。

仕事が一段落する頃、ウグイスたちのセッションに始まり、さまざまな声が加わっていく。じっと耳を傾けていると、やがて空は白んでゆく。


テスト


いったい何種類いるのだろう。あの鳴き方は、何という名前の鳥なのか。


そんな事を考えながら、今年の春頃から鳴き声のスケッチを始めた。
まだ20個足らずだけれど、少しずつ増えている。


ピアノは、楽器のカテゴリーとしてはパーカッションであって、その中でも実音のリリースは短く、木管や弦楽器のように本物の鳥の声を表現をすることは極めて難しい。

それでもピアノでフレーズを弾いてみる。いつかもっと、鳥に近づけるように。

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鏡の中の世界

鏡の中の世界
私の顔は、左右の目の高さが違う。
眉山の場所もずれているので、眉を書くとき左を少し外側に書くようにアドバイスされている。

だから、鏡に映る自分の顔に慣れているせいだろう、写真の自分、特に正面にはものすごい違和感を感じる。
それはきっと私だけでなく、多くの人が感じているに違いない。
シンメトリーの顔を持つ人なんて、現場の用心棒さんが大好きな香椎由宇ぐらいらしいからw。


何かを見るときに、焦点をどこに合わせるのかによって、その印象は大きく異なる。

記憶の中で、それが夢であったのか、現実なのか、意識が朧げな事がある。


鏡の先に三次元以上の世界があるはずもないとわかっていながら、向こうとこちらの世界がいびつに繋がっていると感じてしまうのはなぜなんだろう。

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2008年7月30日 (水)

希望に代わるもの

希望に代わるもの
「人の心にある音楽は決して奪うことは出来ない」

音楽が人間にとって一つの記憶の事象である限り、永遠に心から奪うことはできなきないという事。

しかしひとたび、深い悲しみにそれが結び付いたとしたならば、人は自らその音を封印する。


それなのに、耳がそのかけらに再び触れた瞬間、自分でも忘れていたはずの記憶は鮮烈に甦る。

人の心に宿った音楽は、どれほど切り捨てたいと願ったところで、己ですらも、決して奪うことは出来ない。

ならば、音楽を伝える人間は、何処にそれを置くのか。

純粋に聴き手として感銘を覚えた音が、頭の中でループして抜け出せなくなってしまうことがよくある。

そんな時、新しい音を求めて、私は容赦なく音を捨てにかかる。

それなのに、必死な私を嘲笑うかのように、気が付けば音は心のフォルダーに舞い戻っている。


ツアーに行けば、毎日が新しい出会いであり、ほとんどが初めてshezooを聴く人と時間を共有するとなれば、何百、何千回弾いた曲であろうと、その瞬間、昨日までのshezooは存在し得ないのだ。


ショーシャンクの空に
「心の奥底にあるもの、それは希望だ」


音楽は、希望の代弁者なのか。

確かに、そこには絶望も存在するのに。

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付け合わせの妙

付け合わせの妙
ジューシーなハンバーグに炊きたてのごはんと具だくさんの味噌汁。
最高のご馳走です。

でも何かが足りない。

そう。
それは鮮やかな色合いの付け合わせだ。これが不可欠。

付け合わせの善し悪しで、メインディッシュの印象は、いかようにも変わってゆく。

でもこれはあくまでも、ハンバーグが美味しいという前提があっての事。

ならばその付け合わせが、ハンバーグをしのぐほどの存在感であったとしたらどうなるのか。


それって、芝居でも音楽でも、同じ事が起こり得る。


本当にいい脇役は、決して主役を食ってはならない。

そんなことを考えた日。

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2008年7月25日 (金)

無題

無題
永遠のものなんて何もなくて
そんなことはわかっているから
冷静に振る舞う


あらためて突き付けられた時
また深い穴を掘り始める


これまでも

これからも

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2008年7月23日 (水)

まぶたとみみたぶ

空港で6時間待って、へばへばになって帰ってきたのも束の間、乃木坂スタジオでCMのレコーディングがただ今終了。

まぶたとみみたぶ

ミュージシャンの巧さと、エンジニアの広兼さんの優れた耳のセンスで、すっごく格好いい作品になりました。感激。


まぶたとみみたぶ


あれ?以前会ったことがあるような気がしていたら、広兼さんて、みみたぶの人なんだ。


ホッとしたら、急激に眠気が襲ってきた。お腹ペコペコだけど、今日はとっとと帰ろう。

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天上の夢

雲の上
一週間なんて、あっという間です。

先週の今日、北海道に来たと思ったら、もうツアーも終わり。


たくさんの人と出会って、いろんなシーン脳裏を過り、心に浮かびます。

整備不良とかで出発地時刻は大幅に遅れたけど、空の旅はなかなか快適。


陽の高いうちは、天使もまだやわらかな雲に包まれて微睡んでいるのかもしれない。

そして東京は


果てしなくあづい
(´・ω・`)

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北海道ツアー6日目恵庭「夢創館」

北海道ツアー6日目恵庭「夢創館」
夢創館は古い倉庫を改築して作られたスペース。

ここもアルテピアッツァ同様、前回伺った時、あまりにすばらしい音響と雰囲気の印象が鮮烈で、夢の蔵のスタッフと恵庭の方たちのおかげで実現してもらった場所です。


鍵盤をひとつ触れただけで、音が広がってゆきます。期待に違わぬ状況に、ここではラプソディーインブルーとサムワントゥーウォッチオーバーミーもプログラムに入れていた事もあって、リハの時から思いっきり弾いていました。


ふと気付くと、開場が始まっていて、客席の人と思わず目が合ってちょっと恥ずかしい…。
北海道ツアー6日目恵庭「夢創館」


ぜいたくな照明も入れてもらい、幸せな一夜でした。
小さい子供たちが、Fungi on red〜きのこに合わせて踊っていた。

余談ですが。
夢創館ではプロレスの興行もやるのだと!
北海道ツアー6日目恵庭「夢創館」
いろんな場所でライブをしてきましたが、次の週にプロレスのリングになる場所での経験は初めてのことです。なぜか興奮。

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2008年7月22日 (火)

Lotus Flower

Lotus Flower


宿泊した千歳から恵庭に向かう道すがら、牧場と農場を見に行く。


一面のケール畑の先に広がる赤麦、サラブレッド、青や赤い屋根の牛舎。

Lotus Flower


途中、沼に生える蓮の葉を発見。花は未だ。

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2008年7月21日 (月)

夏の牡蠣

夏の牡蠣
ツアーも残すところあと1日。

今回、ローディーをつとめてくれた宮崎さんの事務所近くのBistro蔵で打ち上げ。

牡蠣と山芋の揚げ出し。
やばいです。
北海道では夏でも厚岸の牡蠣が食べられるんだそう。

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2008年7月20日 (日)

北海道ツアー5日目小樽「町の寿司」

北海道ツアー5日目小樽「町の寿司」
北海道ツアー5日目小樽「町の寿司」
ライブの前に食事をすませていた皆さんは、とても幸せそうでした。美味しいものって、本当に人を幸せなするのですね。


今回のツアーで唯一のエレピ。でも、全く気になりませんでした。

ほとんどの方が、私の演奏を聴くのは初めてのはず。それなのに、これまで何度も聴いてくださった人たちのように、至って自然に受け入れてくれました。

アンケートには「癒された」という書き込みを多く発見。でもむしろ癒されたのは、こちらの方かもしれない。一緒に時間を共有できた方々に感謝。


終演後、むちゃくちゃ美味しいお寿司を頂きました。ほっぺた落ちました。
ごちそうさまです。
合掌(・Θ・)/

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太鼓・のこぎり・天の声

太鼓・のこぎり・天の声
小樽に到着。
古い建物に趣があります。素敵な街だ。


そういえば今日、題名のない音楽会にアウラが出たはず。


もちろん、アウラは天の声でしょう。


太鼓とのこぎりとセッション?

どんなだったんだろう。

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深夜のおでん

深夜のおでん
普段の生活からは考えられないほど定期的にご飯タイムがやってくるし、なぜかライブの後って猛烈にお腹が空くので、一旦ツアーにでると大抵肥えて帰ってくることになる。

そして今回も例外ではない様子。


以下は札幌での話。
それにしてもよく食べた。朝定食に始まり、昼の蕎麦、ライブ前のチキンサンド、打ち上げで出された大好きなはらこ飯とジンギスカンについては、周囲の驚愕の目も気にせず一人でほぼ完食。かっかっか。

ここまで食べれば十分だ、と自分でも思いつつ、ホテルに帰ってから何となくふらふらコンビニへ。水とお茶を手にレジで順番を待っていたら、隣のレジでおでんを買っている人が目に入った。するとおでんカップを袋につめる店員の手に何やら見慣れぬ茶色いコブクロ…。必死でチラ見をすると「おでん用みそだれ」だって!大根とかこんにゃくの田楽みたいなのかなと興味津々。
気が付くと、こんにゃくとつくねを買っていた〓


よく分からないまま、辛子と味噌両方つけて食べてみました。

辛子と味噌の味だわ。

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北海道ツアー4日目美唄「アルテピアッツァ」

北海道ツアー4日目美唄「アルテピアッツァ」
北海道ツアー4日目美唄「アルテピアッツァ」
やっと夢がかないました。

何年前の事でしょう、初めてアルテピアッツァを訪れて以来、ずっとこの場所で演奏してみたいとずっと思ってきました。

あの時は冬で、廃校になった小学校の校舎には、だるまストーブがたかれていたっけ。

昨日まで続いていた、はっきりしない天気が嘘のような爽やかな午後に、現在はギャラリーとなっている体育館で、絵とオブジェと音がくるくると舞い上がっていきました。
そしてその隙間を縫って耳に囁く鳥の声。途中突然降ってきた雨の音さえ、あたかもプログラミングされた効果音のように感じられます。


北海道の人たちは寡黙だ。それでも伝わってくる集中していく「気」に、人として、ミュージシャンとして、温かな体温を感じる毎日です。

私のわがままを現実のものにしてくださった皆さんに、心から感謝します。
この瞬間を、きっと一生忘れない。

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紫
一面のラベンダー畑。

紫の色は、さまざまなグラデーションの糸で織られた絨毯のようです。


茹でたてのとうきびを買いました。でかい。ふだん食べているものの1、5倍はある。

この甘さは「とうもろこし」じゃなくて、まさしく「とうきび」の名前がふさわしいと妙に納得です。

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北海道ツアー3日目帯広「BbM 7」

北海道ツアー3日目帯広「BbM<br />
 7」
朝、スタッフは市場でおまかせ丼をたべたらしい。ご飯を買って、好きな刺身を乗せてもらうというアレ。
…〓

集合時間ぎりぎりにしか起きれなかったのは事実なのに、いざ食べられなかったとなるとすごく悔いが残る。
よし、今度からは目的地に着いたら、とにかく早めに本場の味を食しておこう。


ということで、帯広到着後はまず豚丼を堪能。本番前の準備は万端であります。
帯広は生まれて初めて訪れる地。「BbM7」は駅からも近くて、繁華街の中にあるお店です。

椅子もゆったりとしたソファ、霧島さんの絵も素敵にディスプレイされて落ち着きます。

それにしても、初めての場所でのライブは、どんな展開があるのか楽しみ。

聴きに来てくれる人たちは、みんなアンテナを立てている。そのアンテナは千差万別で、一人一人違ったチャンネルが開いている。
私たちはそこへ発信するのだ。

必ずしもすべてのアンテナに届く電波はありえないし、そんな電波を発することが的確であるとは決して思わない。
受信する側もザッピングするうちに開く場合もあるし、違うチャンネルでも受け取れたり、あくまでも自分のチャンネルを貫く場合もあるだろう。

ライブにおける演者とオーディエンスの関係性は、いつもスリリングだ。それは音楽に限ったことではない。
ひっぱったり、ひっぱられたりしながらの駆け引きが楽しい。そんな事を強く感じたライブでした。


今日で前半が終了。

次回は店主のげんちゃんやけんぢさんとも一緒に演奏したいものです。


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2008年7月18日 (金)

北海道ツアー2日目釧路「ジスイズ」

北海道ツアー2日目釧路「ジスイズ」
決して一日中降っていた訳ではないのに、ライブの最中は雨。昨日も何となく霧雨だったし、今回のメンバーの中に、どうも雨乞いが得意な人がいるみたいだ。
あいにくの天気にも関わらず足を運んでくださり、耳を傾けてくれて本当にありがとうございました。しっかりと伝わって来ました。


濃い夜。
登板前のピッチャーのように、一応ライブの前には今日はこんなふぅに流れを作って完封しようと大筋のシミュレーションは考えて望むのだけれど、実際はその通りに進むはずもなく、打ち込まれてKOだったり、味方の援護に助けられて逃げ切ったりするのが常な訳だけれど。
それが昨日ほど自分の思惑に対して、心が離反して行くライブは、もしかしたら初めてだったのではないかとと思われ、「弾く」というより、もはや「弾かされている」状態でありました。
だから、これだけはと決めていた事の居心地の悪さが、妙に新鮮にも思えたり。

こういった体験は、スタジオだけでは得られない、ライブを通してはじめて巡り合えるかもしれないものだとつくづく感じた瞬間でした。

打ち上げは夜明けまで大盛り上がりで、あいかわらず「shezooちゃん、よく食べるねー」とか言われながら、余計なお世話じゃいと思いつつ、つぼ八を堪能。(確かに朝昼をしっかりと食べ、ライブの前には近くのかめや食堂で丼ごはんを完食している事実はあるが。)
これもひとえに、ツアーの醍醐味。ミュージシャンでよかったと幸せを感じます。

夜明け、カモメの鳴き声がどこかに反響して、深いリバーブとディレイがかかって町にこだましていました。


ジスイズの店主、小林さんの旧知のご友人が、つい先日病気で急死され、昨日はお通夜だったとのこと。
合掌。

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2008年7月17日 (木)

浦河漁港

浦河漁港
昼食後、再び釧路へ。

うみねこがにゃあにゃあ鳴いています。

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北海道ツアー1日目札幌「くう」

Photo

「naturecircle」のブックレットの中に収められているピアノを弾く手の写真、アレは紛れもなく「くう」でピアノを弾く私の手です。不慮の事故で亡くなられたPAの別所さんが残してくれた大好きな写真でした。今回、「naturecircle」を通してたくさんの方に見て頂くことができて、本当によかったと思っています。
そんな思いのつまった場所が今回のツアーの初日でした。

とにかくむちゃくちゃ弾いていく程に気分がよくなるピアノです。coralの最後のリリース音の続くこと。少しずつ減衰してゆく音の彼方に、満月へ向かって旅立つ珊瑚の卵達の姿が融けていった気がします。

足を運んで下さった方、そしてオーナーの山本さん、奥様、本当にありがとうございます。
幸先のよいスタートが切れました。


明日は釧路です。どんな出会いがあるのでしょうか。楽しみです。

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2008年7月16日 (水)

近所の東急ストアのイベントで買ったバックハウスのピアノソナタ@ベートーベン

近所の東急ストアのイベントで買ったバックハウスのピアノソナタ@ベートーベン
…結局眠れない。


予想はしていたものの、見事的中。

そりゃそうだ。不在期間の対応とか、その後のレコーディングのこととか、考えることは山積みで、散々アドレナリン出しまくった後、さらに明日のプログラムとか再考察して余計興奮してしまったのだから。

で、ここで登場したのがバックハウスのベートーベン。基本的に、ベートーベン最後の3つのソナタは、迷った時に戻れる原点であります。

なぜこんなすばらしい演奏を、ばった売りできるんだ!(って買った私が言ってはいけない


ドイツにいたときは、「バックハウスなんか音に蚊がとまりそうだよねー」とか言っていたものです。

あー私は本当にバカ。

以前、松風さんから指摘された「LUNA」という曲でも、結局は同じ事だったのだと改めて気付いたわけです。

余計寝れない。
今から飲んじゃったら起きれないし。

最近、ベートーベンはロックに匹敵するリズムのモチベーションをもっているという本が話題になっているとか。

確かにこのグルーブを18世紀に書いた人は尋常ではないにちがいない。

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ふぅ。

ふぅ。
パッケージ終了。

トランクに荷物を入れながら、去年やったウェラのCMを思い出しました。
海外旅行に行く準備をしている真矢みきさんが、友達から来た電話に対応しながら、ふと鏡を見るとちょっと髪が…というお話。

その映像ではベッドの上に素敵なドレスの数々が並べられていて、旅行への期待が盛り上がっとりました。

じゃあ自分はといえば。

何となくその辺にあるTシャツとか突っ込んで、出かけていた、というのは前回までのこと。

今回は、スタイリストを引き受けてくれている新田さんのアドバイスのもとに準備したシャツや、彼女が準備してくれたパンツやアクセが入っています。

私の中には、音楽が伝われば、見た目はどうでもいいという概念がありました。正直、今でもちょっとめんどうであるという気持ちはあります。

でも、時間とお金を費やしてライブやコンサートへ来て下さる方々に対する礼儀として、特にソロをやるとするならば、ステージには自分しかいないという事も踏まえ、普段着でいいのかという問題を突き付けられたとしら、きっと「よろしくない」と答えると思ったのがきっかけです。

もちろん、自分ができうるベストの音楽を表現することがあることは大前提として。

聴きに来て下さっている方は、どう感じているのでしょうか。

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2008年7月14日 (月)

気持ちの所在

身体は東京、魂はどこにいるんだろう。
毎日のように朝まで起きていて、ちょっと横になる。
頭の中で、たくさんの言葉と音と映像が、滝のように流れたり渦を巻いたりしてゆくイメージ。
アンバランスな今日この頃です。

ふと気づくと、北海道ツアーは明後日からだ。

いつもはぎりぎりまで書き仕事をして、徹夜の頭でふらふらとツアーを開始するものの
始まってしまうと毎日が充実して、疲れなどふっとんでしまう。
でも、一線に飛び込む瞬間にこそ、なかなか身体が重くて踏ん切りが付かない。
今回は、ツァー後のレコーディングの準備も早々と終わっているはずなのに
結局時間の使い方は相変わらずよろしくない。

だけど北の大地と新しい人々との出会いを思い描きながら
粛々と準備をする訳です。

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ブログ

自分で作りますと言っておきながら、結局事務所の頭脳、中村くんのお世話になって
やっと念願だったブログ開設の運びとなりました。

筆無精(この場合は入力無精なのかな)では決してないのに
下書きフォルダーにどんどん文章を溜め込む妙な傾向があります。

自分自身を見つめ直す意味においても、勇気を持ってアップしていくようにしよう。

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